その722 『喪ってから (ライム編1)』
まるで、穴の空いたバケツを抱えている気分だった。泣いても泣いても、そこに涙は溜まっていかない。悲しみという名のバケツはいつまで経っても満杯にはならない。
――――どうしてこんなに悲しいのだろう。
もう二度とジルに会えないと思うと、何も手がつかない。
「ライムちゃん。ほら、何か食べないと身体も弱ってしまうわ」
ろくに食事もしようとしないから、隣にいるマーサが頻繁に声を掛けてくる。困らせていることは分かっていた。
「ジルさんだって、ライムちゃんがこんな辛そうな顔をしているの、嫌だと思うの。だからせめて一口だけでも、ね?」
マーサの手にある御粥は、とうに冷え切ってしまっている。それに気がついたマーサはきっとまた温め直しにいく。そうしてまたライムの部屋にやってくる。まるで、ライム自身が飛行機関になったかのようだ。冷めてきたら飛行石の光を調節して熱を生み出し、温まったら手を止め、そうしてまた冷めたら熱を生み出す。
けれど、ライムは差出されたスプーンを手に取る気にはなれない。もう何かを口にすることも酷く億劫なのだ。このまま冷え切って消えてしまいたかった。
不意に耳障りな、トントンと扉を叩く音がする。また、リーサが来たのかもしれない。マレイユを弔わないか再度確認しにきたのだろう。
マレイユも死んだ。
その事実はライムを余計に苦しくさせた。再び流れはじめた涙に、力が奪われていく感覚がある。
「あら? ひょっとしてセンさん?」
マーサが立ち上がり、扉の奥へと消えていく。
「あらあら! センさん、起きていらしたのね。良かったわぁ」
マーサの驚きの声が扉越しに聞こえてくる。リーサではなかったようだ。
「マーサ。寝ていないだろう。交代しよう」
「センさん、でもお怪我は?」
「大事ない。食事も作れた」
「そう、ライムちゃんのために。……そうね、お言葉に甘えます」
泣きながらも、会話は耳に入ってきた。ライム自身のことで迷惑をかけていると思ったが、くぐもって聞こえるせいかどこか遠い世界の話を聞いている気分だ。
暫くすると、扉の開く音がしてセンが入ってくる。マーサと交代したらしい。センはその手にお皿を持ってきていた。すぐに食事だと分かった。
「いらないです」
ライムが欲しいのは、食事ではない。欲しいのは、ジルとともに過ごす日々だ。そもそも元気だったときであろうと、食事を満足にとってはいない。だから、当たり前のように拒絶した。
センにライムの言葉は届いていたはずだが、センは何も言わずライムの隣で腰を下ろした。
そうして、一言呟く。
「それは残念だ。これは、ジルの好物だった」
センも元々無口だ。そしてライムに話す気力はない。だから暫く部屋のなかがしんと静まり返る。
そうしていると、センの言葉がぼんやりと頭に入ってきた。ジルの好物という言葉が、ライムの気を引く。
「ジルの?」
またジルのことを思い出して涙声になったが、センには伝わったらしい。
「あぁ。ジルは、この霜陰南瓜のスープが好きだった」
そう言われて、ライムははじめてスープに目を落とした。南瓜の濃い黄色が浮かんでいる。センが持ってきたときは熱々だったスープも既に冷め始めている。そのことだけは、今までの時間から分かっていた。
けれど、ジルがこのスープを好きだったとは知らなかった。
「何故、好きか分かるか?」
ぽつりと問われて、ライムは首を横に振る。
「見た目が鮮やかで栄養価が高い。そして、長年いた場所の味に近い」
長年いた場所。その言葉を鈍った頭でゆっくりと噛みしめる。泣きすぎて鼻がつんとするばかりか、頭がぼうっとしているのだ。
「それは、故郷ですか?」
「ジルの故郷は、イクシウスだ」
センの言葉は否定だった。マーサがしてくれたような同調でも慰めでもない。まるで責められたように感じて、ライムは口を噤む。
「けれど、ジルはシェパングに留学していた」
センから二言目が紡がれたときには、一言目から随分時間が経っていた。
「明鏡園の近くでは霜陰南瓜がよくとれる。だから、スープを飲む機会が多かった」
センの言葉はゆっくりしている。噛みしめるように告げられて、ライムは首を横に振った。
「私、そんなこと知らないです」
どれも初耳だった。
「君が悲しんでいるジルのことだ」
知っていて当然だろうというように、センは告げる。それが批判に聞こえた。鋭い言葉の刃でライムの心のバケツがぐさぐさと刺されていく。
否定はできなかった。事実だからだ。事実は曲げられない。飛行機関に触れているからこそ、事実の大切さは分かっている。僅かな光の角度一つで全ては覆る。当然、妄想で数字は語れない。そんなことをしては、飛行船は落ちてしまう。
だから、ライムはその事実を受け入れた。
「私、知らないです。ジルの故郷がどこにあったのかも知らないです。留学なんて知らないんです」
ジルのことを思い浮かべるだけで、悲しい。それもまた事実だ。けれど、ライムはジルのことをろくに知らないのだ。飛行機関にかまけて、一緒にいたのに知ろうとさえしなかった。センのほうがライムよりもずっと知っている。そのことに気づかされる。
「何で、知ろうとしなかったんだろう」
知っておけばよかったと、今頃後悔している自分がいる。
「知りたいか?」
知っても辛いだけだ。そう答えても良かった。知りたくないなら、知らないままでも良かった。むしろ知ってしまったら、余計に悲しくなるだけだろう。ジルはもういないのだ。そのことをもっと強く意識させられるに違いない。
「知りたいです」
けれど、ライムはそう答えていた。ずっと泣き続けることしかできないでいたライムのはじめての一歩だ。そしてその一歩が踏み出せたのは、ただの好奇心だった。ライムは、少しでも疑問があれば手を伸ばし変えていくことの楽しさを知っているのだ。
何故なら、ライムは機械いじりが好きなのである。知らないことを解明することが好きなのである。それは、誰かを失ったとしても変えられない。
そこまで考えて、首を横に振った。そうではないのだと気が付いたからだ。機械いじりは確かに好きだが、その理由は別にある。
――――何かに夢中になっていれば、失った悲しさを忘れていられるのだ。
そう意識したとき、不意に笑いが込み上げてきた。
「セーレと同じですね」
数拍おいて、センから疑問の声が上がる。
「どういうことだ?」
「あの飛行機関もお父さんとお母さんのことを感じていたくて一緒にいたんです。そうすると、不思議と今がどうでも良くなって悲しくなくなったから」
セーレの飛行機関は、ライムの両親が作り上げたものだ。だからこそ、常に触れることでライムにとっては自分を保つ手段になっていた。
「だけど」
セーレが燃えている。あのときの景色がライムの脳裏に再び訪れる。ぎゅっと両手を握りしめて、ライムは俯いた。
「私はいつも失ってからしがみついています。……なんで、いつもこうなんだろう」
後半は、ただの独白だった。
「悲しいか」
ぽつりと問われ、ライムは頷く。
「はい。とても悲しいです」
涙が再び溢れ始めた。ライムはそれを止められない。ずっとずっと、喪ってしまった者を思い続けた。




