その721 『霧の朝に燃ゆ』
まだ外は暗かった。星が瞬く空は、湯気の多い地でも少し肌寒い。
イユたちはそれぞれ持ってきた魔法石で明かりを灯す。腰のあたりがほんわりと光って、足元をよく照らした。
「私たちはここまでだな」
魔法石のないアグルの両親は手元に明かりを持っている。顔元が赤く照らされて、恥ずかしがっているかのようだった。
「ここまでお見送りいただき、ありがとうございました」
レパードの丁寧な言葉に、アグルの父が首を横に振る。
「本当にお気をつけて。アグル、無茶はするんじゃないぞ」
「手紙、出してね。それと、いつでも帰ってきていいからね」
アグルの両親からの言葉に、アグルは少し戸惑った顔を浮かべている。
「手紙、出させるから」
中々返事をしないことにじれったくなって、イユは思わず宣言する。アグルが目を瞬いたのが伝わってくる。
「言えるときに言えること、言っておきなさいよ。後で言えなくなっても知らないんだから」
そうアグルに耳打ちして、イユは背中を押しやった。
アグルがよろめきながらも両親の前へと出る。
「あ、えっと……」
照れくさいのか、どうすればよいかよく分かっていないのか、まるでリュイスでも見ているかのように優柔不断だ。苛々し始めたイユを感じたのか、アグルはようやく一言発した。
「おやすみなさい」
言うに事欠いてそれかと、突っ込みたくなった。確かにアグルの父ならば、明日にでもまた顔を合わせるかもしれない。
だが、アグルの母とは恐らくは暫く顔を合わせないだろう。そこで言う挨拶がおやすみでよいのかと言いたくなる。
「ふふ。そうね、おやすみなさい」
けれど、どういうわけかアグルの母はそれを聞いて嬉しそうに笑った。憑き物の落ちたような、笑みであった。
アグルの両親が帰っていく。その背を見ながら、イユはその表情の意味が分からないでいる。
「ほら、帰るぞ」
そうしていると、レパードに声をかけられた。イユは頷いて、山の中へと進んでいくのであった。
タラサについたときにはすっかり朝日が昇っていた。甲板にリーサの影を見つけて、手を振る。甲板へと走るイユの目に、イユたちの元へと駆け込んでくるリーサが映った。
用心棒のつもりかリーサの背後からアグノスが飛んでくる。リーサを追い抜くと、喉を鳴らしながら旋回して森の中に消えていった。
その様を見送ったイユの前に、リーサが追いついてきた。息を切らしながら口を開く。
「イユたち、お疲れさま。夜のなか山を歩いてきたのね」
「マレイユのことが気掛かりで」
そう答えると、リーサの表情が途端に曇った。リーサも既にマレイユのことは聞いていたようだ。
「リーサ。マレイユを海に還す準備はどうなったか聞いても良いか」
イユと違い歩いてやってきたのは、レパードたちだ。背後から聞こえたレパードの言葉に、リーサはすぐに頷く。
「準備自体は殆ど終わっているそうなのですが、まだ朝早いこともあって、皆への説明ができていません。イユ。それに船長も、良かったら少しの間仮眠をしてきたらどうでしょうか」
イユたちは顔を合わせる。少し仮眠はしてきていたとはいえ、誰かを失ったあとの旅は、どうしてか酷く疲れる。言葉に甘えることにした。
トントン。
リーサの言葉に従って部屋で仮眠をとっていたイユは、ノック音で目を覚ます。
「イユ。起きられそう? 今からマレイユを海に還すそうよ」
リーサの声だ。起こしに来てくれたらしい。
「行くわ」
そう返事をすると、
「分かったわ。急がなくていいから、準備ができたら来てね」
と告げて、遠ざかる足音が聞こえた。順番に声掛けして回っているようだ。
言われたとおり準備、――――冷たい水で顔を洗いながら――――、ふとリーサの声が固かったと思い起こす。恐らくは感情を押し殺しているのだろう。マレイユのことが悲しいのだ。
けれど、心配掛けまいと気丈に振る舞っている。
「私も、落ち込んでばかりはいられないわ」
タオルに顔を埋めたあと、そう口にする。取り巻くような虚脱感が少しだけ軽くなった気がした。
甲板に出ると、既に皆が集まっていた。レパードが帽子を抑えじっとマストに背を預けている。リーサは車椅子のヴァーナーと一緒にいた。「目が覚めたのね」「クルトの作った車椅子を借りたのね」などと、話に行ける雰囲気でもない。イユはすぐに視線を外し、周囲を見回す。
先程声を掛けてきたクルトは、レッサと話し込んでいた。マーサはライムと一緒にいるのか姿はない。出歩けないシェルは当然として、医務室で休んでいるジェイク、センの姿もなかった。
クロヒゲが声を掛け、マレイユの遺体が運ばれてくる。ミスタの指示でアグノスが火を吐く。赤々と燃える炎を前に、それぞれが鎮魂歌を唄い出す。
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
嗚呼 我らが海の女神よ 我らを赦したまえ
願わくは 御魂が穢れし業より解放されんことを
深い霧の朝だった。煙が空に溶け込んでいく。強く手を握りしめながら、イユはもう唄うつもりのなかったこの唄を口ずさむ。
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
嗚呼 我らが海の女神よ 我らを赦したまえ
願わくは 御魂が穢れし業より解放されんことを
いずれ遍く業が浄化され 無垢なる大地を歩む日が来たらんことを
いつか来たる平和のその先に 女神の微笑みがあらんことを
誰かの涙する声が聞こえる。イユはここに来る途中、廊下でクルトに聞いた話を思い返していた。
「マレイユって、面倒見が良いんだよね」
人はいずれは死ぬと割り切っているクルトは、悲しんでいる様子は見せない。ただ、記憶を掘り起こすようにイユに言って聞かせるのだ。
「ボクも何だかんだお土産とか貰ったし。シェルとか、掃除サボっていても誤魔化してもらったりさ。ジェイクなんかマレイユにナンパを付き添わせていてさ、……あれは笑ったなぁ」
シェルもジェイクもこの場にはいない。医務室で死を悼んでいるのだろう。
「あの二人はきっとまた悲しんでいるわね」
イユはタイミングが悪くシェルが起きているときに出会えていない。ただ、その悲しみを想像することはできる。甲板員としてマレイユと過ごした日々は、イユと過ごした日々よりもずっと長いはずだ。傷に障らないかと心配になる。
「まぁ、だけどさ。セーレの探していた仲間、最後の一人がこんな結末になっちゃったけど、ボクはイユのこと頑張ったって思うよ」
突然の思いがけない言葉にイユは面食らった。
「何よ。急に」
「別に」
きっと、思い詰めているように見えたのだ。クルトはどこかさっぱりとしているところがあるが、人の感情の機微に疎いわけではない。イユに気を遣ってこうして声を掛けられる。
参ったなと、内心で唸った。ラビリがクルトと話しているときもこういう気分だったのだろうかと、考えてしまう。
「それが事実だったとして、仲間を失ったことには変わりないわ」
だから、イユは少しでも先輩風を吹かせようとした。
「私はそれが悔しい。故に、もっと前を向こうと思うの」
それがきっと、マレイユたちへの手向けにもなる。そう願った。
「これはマレイユの言葉だけどさ」
そこに、クルトが声を掛ける。いつの間にかイユよりも数歩進んで、その細い背中を見せながらちらりと視線をイユへと向ける。
「『根を詰めるよりは楽しいほうが、旅をしている気分になれるようだ』って」
「そんなこと、マレイユが?」
確かに言いそうではある。マレイユがあくせく働く印象はない。どちらかというとおっとりと、その日その日を楽しんでいる風だった。だから、イユが『異能者』でも動じなかったのだろう。
「うん、ボクは賛成かな。どうせ自分の人生なんだし、振り返ったときにつまらないのはね」
それを聞いて、マレイユのその言葉はどこかクルトの価値観に似ているなと感じた。それで、気がついたのだ。
きっと、クルトの価値観にマレイユは少なからず影響を与えている。シェルやジェイクの話以上に、クルトにとって大きな存在だったかもしれない。
「やっぱり、悔しいわ」
終わってしまった旅に、続きが欲しかった。




