その715 『先にいくよ(セン編)』
トントン……
何回目か数えてもいない。ただ、定期的にやってくるノック音に、耐えられなくなった。渋々ながら扉を開けると、そこには面長の男が立っている。見慣れた顔だったはずだが、どうしてか名前が出てこなかった。
センは目の前の男が持っている手紙に目を留める。男が差し出すその手紙には、何故か今はもうここにはいない男からの無茶苦茶な依頼が書かれていると分かっていた。
「やることがないなら、『狩人』に従って、障壁を越えてこい。専属料理人の座がある」
などと書かれているに、違いないのだと。
それでも手紙を開いてしまったのは、手紙の送り手がじっと待っていたからだ。彼は『狩人代行』と名乗った。その男は書き手の情報を全く持っていなかったが、返事をもらおうとその場で佇んでいた。
別にその男は切実な目でセンを見ていたわけではない。どちらかというと、仏像のように玄関前で立たれたままなので、居心地の悪さを覚えた。
たださすがに遠路遥々やってきたその男に悪いと、そう判断するほどにはセンは人がよかったというだけである。
渋々開いた手紙は――――、白紙だった。
目を疑ったセンは、『狩人代行』となる男を凝視した。三つ編みをなびかせた男はそこで言葉を投げかける。
「君には子供がいたのかい?」
質問の内容は、あのときと変わらなかった。センは白紙の手紙を前に固まった。目の前の男の言いたいことが分からなかったからだ。
そうして、『狩人代行』は当時と同じ言葉を再び紡いだ。
「それならばきっと、君の旅は終わっていないようだ」
センはすぐさま、男の腕を掴んだ。
「――――お前の旅は、終わったのか?」
男は一瞬痛そうな顔をしたが、すぐにセンを見つめ返した。けれど、何も言おうとはしない。
「お前は、戻ってはこないのか?」
再び紡いだ言葉に、センは今更ながら目の前の『狩人代行』の存在を強く思い出していた。後ろ髪を三つ編みでまとめた面長の男が、濁った記憶のなかから鮮明に浮かび上がる。
センは、男の名前を呼んだ。
「どうなんだ、マレイユ」
マレイユは『狩人代行』として、センの家へやってきた。よく『狩人』であるマレイヤの手伝いで、手紙を運ぶ仕事をしているらしい。お人好しだと思ったが、何か事情があるのだと思われた。
「残念なことに、どうやらそのようだ」
マレイユはそう宣言した。
「忘れてしまったと思っていたんだけれど、不思議なことだ。ちゃんとこうして会いに来れたのだから」
「忘れる? 何のことだ?」
マレイユはそれには答えない。ただ、もう時間がきたとばかりにセンの掴む腕を振りほどく。
「あの子たちを頼むよ」
そう告げてマレイユは手紙を指さした。
センは手紙を凝視する。そこに文字が見えた気がしたからだ。
けれど、文字の内容を理解する前にセンは手紙を捨てた。それよりも先にやることがあった。
「待て、マレイユ。どこに行くつもりだ!」
慌てて駆け寄ろうとする。いつの間にかマレイユの姿がずっと遠くにあって、消えようとしていたのだ。
「マレイユ! 手紙は自分で届けろ!」
そう叫びながら走るが、どうしてか追いつけない。
ずっとずっと走り続けた。意識が途切れるそのときまでずっと。
ひらりと何かが落ちる音がして、センははっと目を覚ます。
周囲は真っ暗でよく分からないが、医務室特有の匂いが鼻についた。それで自分が今どこにいるのかを理解する。
マレイユのことを思い返し起き上がったところで、自分の頭の上に乗っていたと思われる布が落ちているのに気がついた。
はっとして周りの様子を探る。寝息が耳に届いた。複数ある。豪快な音は、隣に寝かされている少年、ジェイクのものだろう。それから少し遠くでベッドにうつ伏せた状態で眠っているリーサの姿がある。恐らくは看病中に眠ってしまったのだろう。誰かが背中に上着をかけてやっていた。
リーサが眠っているベッドには黒髪が覗いている。あれはヴァーナーだ。
そこまで確認したことで、大体の事情が呑み込めた。センは助かったのだ。セーレとは似ても似つかぬ飛行船に乗っているようだが、少なくとも魔物の腹のなかにいるわけではない。
それでは、あの夢は何だったのか。
探したその先に、扉があった。怪我人であるならば大人しく待っていたほうがよいという頭はあったが、どうしてもあの妙にリアルな夢が気になる。
ベッドから出てみたが、身体は意外なほどに何ともなかった。傷の類は治っているようだ。恐らくは魔物の精神に作用する力のほうが怪我よりも重かったと思われる。それがわかったところで、扉の外へと向かう。
外は廊下になっていた。長く続く廊下の反対側には階段がある。どちらに向かうか悩んだそのとき、誰かの声が耳に届いた。それは子供の泣き声のようにも聞こえる。
迷うはずもなかった。長い廊下へと、声の主を求めて歩いていく。
「助け、られなかった」
震える声に、耳を疑った。それは泣き声ではなかったが、消え入りそうなほど沈んだ刹那の声だった。感情の乏しい子供であるとばかり思っていたが、声音だけで後悔と悲しみが伝わってくる。
「……こんなの、あんまりで」
リュイスの沈んだ声が、足音に気づいたようで止まった。
廊下を曲がった先で、集団がいた。刹那とリュイスだけでなく、アグルにイユ、レパードまでいる。一様に暗い顔をしていた。
「セン……、目が覚めたの?」
イユの驚きの声には、答えられなかった。レパードに背負われた男は、見たことがない。だが、イユが抱えている男の姿が、あまりに記憶に新しかった。
「手紙は」
思わず呟いた。
「手紙は見たのか」
あの子たちを頼むという言葉。白紙だったはずの手紙の文字。
それらは夢だったはずなのに、こうして目の前でマレイユの遺体をみてしまうと、偶然とは思えなかった。
「マレイユの手紙を受け取ってはいないのか」
だからそう、尋ねていた。




