その700 『悲嘆にくれて』
「ちょっと、何なの?」
イユが問いかけるが、ベッタは答えない。かわりに、レパードに声を掛ける。
「船長。確認を頼めるか」
レパードがイユを通り越して、ベッタとともに牢屋を見る。その顔が青くなったのが、すぐにわかった。
「間違いないよな?」
「あぁ。これは、疑いようがない」
何を確認しているのか、イユは心がざわつくのを止められない。
「ちょっと、二人で話してないで説明をしなさい」
レパードの隣に行こうとすると、
「くるな!」
と声を荒らげられた。その勢いに、つい怯む。思わず足を止めるイユに気づいたのか、レパードは声音を落とした。自分に言い聞かせるように低く落とした声で、呟く。
「これは女子供に見せるものじゃない」
強ばるレパードの顔は、明らかにただ事ではない。余程悲惨な光景があるのだろうと想像できてしまうが、それだけならここまで必死になるだろうかとも思えてしまう。何よりレパードの拳は血の気がなくなるほどに強く握られていて小刻みに震えている。抑えているのは、怒りだということが伝わった。
だから、気づいてしまった。イユたちも、無関係の内容ではないのだろうことに。
口に出して聞きたくはなかった。けれど、そのまま覆い隠されてなかったことにされてしまうのはもっと嫌だった。
「仲間なの?」
尋ねたイユに、沈黙が返る。否定して欲しかった。「そうじゃないが、この光景を見せるわけにはいかないんだ」などと誤魔化してほしかった。
指の先から凍っていく感覚がある。あってはならないことが今、目の前で起きている。
「間に合わなかった?」
刹那の言葉の返事を聞きたくはなかった。耳を塞いで、目を閉じて、知らないふりをしてしまいたかった。
だが、無関係でないと気づいてしまった時点で、もう戻れない。
「……そうだ」
刹那の問いに頷くレパードに、確信と絶望がないまぜになった。
間に合わないとは何だと、問い詰めたくなる。同時にレパードを責めても仕方ないと分かっている。悪いのは、イユたちを巻き込んだ『魔術師』たちだ。いや、元をただせば、自分自身かもしれない。そう思うからこそ、イユたちは助けるためにここまで来たのだ。セーレの仲間全員を救い出してはじめて、満足に笑えると思っていた。難しいとは分かっていて、今までは叶っていた。鳥籠の森でも死にそうな目に遭いながら、無傷とは言わなくとも仲間と合流はできていた。
だから、身勝手にこれからもずっとそれが続くと願っていた。ありもしない幻想にしがみついた結果、今ここで崩れ落ちようとしている。その現実に泣き叫びたくなる。同時にまだ、信じられなかった。まだしがみついていたかった。レパードたちは何か勘違いしているのだ。抗輝たちのことだ。嫌がらせに別の人間の遺体を仲間に似せて置いておくなんてこともありそうだ。まだ、認めるわけにはいかない。
「おい、イユ。だから来るなって」
「納得できないもの」
レパードの声に、イユはそう告げて歩く。どのような状態であれ、まずは見なくてはならない。言葉だけで、首を横に振られただけで納得して諦められるほど、イユは人ができていないのだ。
だから、レパードを押しのけて、その光景を見たのだ。
どのような状態であれ、それがジルだとはすぐに分かった。救いを求めるように延ばされた手はあらぬ方向に曲げられ、瞳はここにいない誰かを望むように見開かれている。それだけがジルと分かる特徴だった。多くの人々の死を見ていたイユにとっても、衝撃的な死にざまだ。ジルの必死さと、それをいたぶる者の悪意がごった返した状態が、目の前に繰り広げられている。
「イカヅチ……」
イユに続いたのはアグルもだった。呻くようなその声が、今はいない相手に投げかけられる。
そう、相手はイカヅチだった。血文字ではっきりと牢屋の壁に描かれている。この惨状を生み出したのはイカヅチであり、その恨みをぶつけてこいと告げている。
あっけなく事切れた人間の悪意だ。今更それを見ても、もう殴りつける顔も残ってはいない。
あまりの虚しさに、膝が折れた。
「ジル、ごめんなさい」
刹那が顔を覆っている。泣けないはずなのに、懺悔の声だけは震えていてあたかも泣いているかのようだ。
「ごめんなさい」
「こんなの、おかしいです」
リュイスもまた苦しそうだ。
「どうしてこんな酷いことができるのですか」
「だから、『魔術師』は嫌いなのよ」
全てあいつらのせいだと、イユは恨みをぶつける。
「イカヅチは『魔術師』じゃない」
「似たようなものよ! あいつは、抗輝の部下なんだから」
刹那の言葉にイユは言い切った。
「「魔術師』だから、こんな酷いことができるのよ……」
「動けそうか?」
「はい……」
結局、全員がその惨状を目にした。レパードに声を掛けられたのはリュイスで、一番顔色を悪くしている。
イユにも気持ちはよくわかった。
「もう、取り返しがつかない」
刹那も膝を抱えている。
「こんなの、人間がしてよいことじゃないです」
血文字だけではなかった。遺体には傷が刻まれている。
「イカヅチ」
自分の名前をいくつ彫れば気が済むのだろう。泣きすぎて鼻の奥がツンとする。絶望に叩き落された身体はただただ寒かった。
「セーレに戻れそうか?」
こくんと、イユたちは頷く。だが、足はなかなか立とうとはしない。
憂鬱だった。あの遺体は既に死後何日も経過している。それがわかったから、自分たちがのんびりしすぎたのだと後悔が湧いてくる。何より、衝撃が大きかった。何故、あそこまで人をいたぶる必要があったのか、イユには分からない。イカヅチという狂った男の思考など理解したくもなかった。
船に戻るまでが長かった。身体も心も重く、誰も何も話さなかった。マレイユの行方も分からずじまいなのが、心に引っかかっている。
けれど、手立ては何も残っておらず、イユたちは亡骸を包んで帰ることしかできなかった。
船に戻ったら、誰に何と説明すればよいのだろう。レンドが先にセーレにいるから、アグルのことは既に伝わっているはずだ。他の仲間も連れて帰ってくるに違いないと、そう期待する皆の顔を想像するだけで気が重い。息苦しさと戦いながら、レース場の横を通り抜ける。
国葬の後にあるというレースだろう。ネオンで彩られた風月園内の空間を、小型飛行船が駆け抜けていく。悼む気持ちはあるのか、どの飛行船の船尾にも魔法石が飾られていた。赤、青、黄。いろいろな光が、走り抜けた後を僅かに遅れて伸びていく。奈落の海を連想させる昏い世界に浮かび上がった光は、死者の御魂を導く旗印のようであった。




