その697 『一時』
灰色の世界だ。
視界はモヤがかかっているかのようだ。吐く息の白く濁るのだけがはっきりしている。寒さが鎖のように体中に纏わりついてくるせいで、進む足は重い。
イユは一人歩いていた。真っ直ぐに歩き続けた先に光があるような気がして、進み続ける。
――――光があったところで、届くわけがないのに。
誰の声だろう。呆れたように語りかける言葉が頭に残る。知っていると、声に返した。
そうであろうとも、歩かないといけない。手を伸ばして手に入れたものを、もう一度手に入れるために。
――――それは自己満足?
ちらついた言葉に、うるさいと返した。自己満足で何が悪い。実際、イユは何も失ってはいない。肝心なものは、まだ何も。
――――もし取り返せなかったら、あなたは誇れるの? 自分自身に
答えは知っていた。考えたくないだけだ。考えてしまったら、また灰色の冷たい世界に戻るしかない気がしたから。
「イユ、起きて。イユ」
身体を揺さぶられて目を覚ます。ぼんやりと濁る視界の先で蒼色の瞳と目があった。
「刹那?」
「目、覚ました」
刹那はすぐに振り返り、誰かを呼ぶ。レパードだろうと思ったが、やってきたのはリュイスだった。
「良かったです。痛むところなどはありませんか」
イユは首を横に振った。まだぼんやりしているが、痛みはない。身体を起こすと、むき出しの配線が見えた。それで風月園のどこかであることは分かった。屋敷からは出たらしい。
「やれやれ。俺らの仕事は運ぶだけになっちまった」
そう言って帽子越しに頭を掻くのはレパードだ。
「仕方ないです。毒が抜けるのを待つ必要がありましたから」
リュイスの声を聞きながら、レパードの近くでアグルが身体を起こしているのを捉える。
「アグル、大丈夫なの?」
「はい、おかげさまで」
顔色も悪くないどころか、何か吹っ切れた顔をしている。暗示を自力で解いたようだったが、後遺症らしきものもないようにみえた。最も心のことだから、イユにはよく分からない。
「レンドが、まだ寝てる」
「お前らの回復が早すぎるんだ」
寝てると言われたレンドから、反論がある。見るとイユのすぐ隣でごろんと横になっていた。腹の傷は包帯が巻かれて痛々しいが、それ以外は普通に寝ているだけにみえる。
「レンドも大概だと思うわ」
元気そうなのでそう言うと、刹那から説明がある。
「レンドは解毒剤の投与が早かったから。イユはやっぱり渡しておけば良かった」
とはいえ、三つしかなかったのだから、イユの分は外して然りだろう。
「痺れは魔術らしいから残っているが、動けなくはなさそうだな」
レパードの話だと、抗輝はやはり取り逃がしたらしい。その後やってきたリュイスと動けたアグルと刹那とで、イユとレンドを運び込んだのだという。
「やっぱり見張りはいなかったの?」
イユが向かったときには見張りはいなかった。それどころかイカヅチたち以外もぬけの殻だったのだ。
「避難命令が出ていたのかもしれません」
誰が出したのだろうと、ちらっと考える。どうしてもイグオールの遊牧民を襲ったことを否定しなかった抗輝が、部下とはいえ周囲の人間にわざわざ避難命令を出すとも思えなかったのだ。
「ここは一時的に避難した場所に過ぎない。騒ぎが大きくなる前に風月園を出たほうが良いだろうな」
避難命令が出ていたとして、戻ってきた部下たちがイカヅチの死体を見たら大騒ぎになるだろう。レパードはそう言いたいようだ。
「ちなみに、ここは?」
「偶然見つけた空き家だ。見ての通りのボロ家だが」
レパードが天井に向けて指をさす。そこにはイユが目を覚ましたときに見えた配線があった。家ならば天井が見えるべき場所に天井がないのだ。正確には屋根の一部が崩れ落ちていて、外の様子が露わになっている。地面の床も所々穴が空いていた。窓は当然のように割れており、壁は半分ほどなくなっている。扉は一応ついているようだ。
「よく見つけたわね」
逆にこれほどみすぼらしい家が見つかるのが凄いことのように感じる。
「子供が隠れ家にしてそうですね」
リュイスに呟かれて、イユはリュイスと出会う前、子どもたちと一緒に過ごした家でのことを思い出した。だが、あの家でも屋根はあった。
「動けそうならどうにか動いて、レンドたちを帰すのね。あとは残りの仲間だけれど」
「その件なんですが、俺に手伝わせてくれませんか」
アグルの言葉にイユはきょとんとする。
「思い出したんです。マレイユの場所は分かりませんが、残りは……、少なくともベッタの居場所は聞いています」
アグルは自力で暗示を解いたということを改めて思い出す。そのおかげか、記憶が戻っているようだ。
「信用して良さそうね」
イユの言葉に、レパードたちが安心した顔をした。暗示は疑おうとすればどこまででと疑えるから当然だろう。
「アグルにはどこまで説明したの?」
イユがいつまで寝ていたかわからないが、アグルが話についていけていることから確認する。
「ほぼ全てだ。刹那が式神なことも知っていたし、ワイズのことも話してある」
「ある程度は抗輝たちに聞いていたんです。彼らは、セーレのことをだいぶ掴んでいました」
それは恐らく、誰かの記憶を読んだからだろう。
「アグルも、記憶を読まれたの? 大丈夫だった?」
「はい。ただ、抗輝本人にではないんです。抗輝は何人か『魔術師』を支配していて、彼らに記憶を読ませるんです。そうすれば副作用がないのだとか」
副作用というのがよくわからないが、やり方には寒気がした。同じ『魔術師』でさえ駒に過ぎないという考え方がみえるような気がしたからだ。
「如何にもあいつがやりそうね」
「ということは、全てを一人でやっていた克望に比べて動きが早かったというわけか」
レパードの補足にイユはようやくことの大きさに気が付く。克望のもとにいた仲間の大半は、記憶を読まれる順番待ちであったから無事だったのだ。そして、記憶を無理に読まれたレヴァスやセンに至っては、未だに意識を取り戻していない。
「多分なんですが、無理に短期間で記憶を読もうとすると本人に負担が掛かるんだと思います。俺が平気なのは、時間を掛けたからで、その点で言えばジルたちも同じはずです」
イユの不安を読んだように、アグルから説明がある。イユはブライトに記憶を読まれたときのことを思い返す。アグルの説明も一理あるが、イユのときは抵抗をしなかった。きっと、そうした複数の理由が関係するのだろう。
「多少は安心できるわね」
問題は記憶を読み切った後の仲間を、抗輝がどうしようとしたかだ。アグルは記憶を書き換えられて抗輝のもとにいたが、全員がそうとは限らない。
とにかく会ってみなくてはいけないと、意志を強くする。
「それなら案内を頼める? アグル」
「はい。場所を変えられていなければ、ここからすぐです」
アグルはそう答えた。




