その692 『あとは頼む(アグル編)』
やめろと幾ら叫んでも駄目だった。
アグルの目の前には、腹から血を流したレンドがいて荒い息を吐いている。
レンドは地面に片手をつきながらも倒れない。むしろアグルの方を向いて、合わない焦点を必死に合わせようとしている。
だからこそ、報いたかった。頭の中がシッチャカメッチャカになっていたが、その思いだけは信じてよいと判断した。
その結果、がむしゃらにイカヅチに挑んで、あっという間にナイフを持つ手を握られてしまった。動きを封じられるどころか、今アグルのナイフは傷を負ったレンドに向けられている。
抵抗したいのに、力の差が圧倒的だった。逃れようとしても手が思うように動かせない。蹴りをいれても動じられることもない。レンドに逃げるよう告げたかったが、レンドは意識を失わないでいるのでやっとだ。
このままでは、アグルがレンドを殺してしまう。
さぁっと血の気が引いた。この手に残る誰かを刺した感覚が蘇ってくる。自分の死はどうでもよくても、他者となると駄目だった。知らず震え出した身体では、もはやロクな抵抗もできない。レンドに向けられたナイフがどんどん迫っていき、近付く悪夢が現実になろうとする。
「相変わらず、汚いやり方」
そのときだった。聞き覚えのある声が、吐き捨てるように告げたのだ。
そして、白い何かが見えたと思うと、アグルの腕を掴む手の力が緩んだ。咄嗟に振り返って、距離を取る。
アグルの目の前で、見慣れた子供の背格好が映った。
「刹那?」
あり得るはずがなかった。刹那こそが、セーレを襲った子供を手引きした人物だ。他ならぬ刹那のせいでアグルは抗輝に売られたのである。だから、ここに現れるはずがないのだ。
けれど、目の前ではその刹那がイカヅチに斬りつけ、イカヅチがそれを避けている。
理解できない現実に目の前がチカチカした。
「アグル、これ」
しかも刹那はイカヅチから目を離さずに、後ろに向かって小袋を投げてくる。
思わず受け取ってしまったが、何が入っているものかと不安になる。
「解毒剤。レンドに早く」
袋の口をのんびり解いている場合ではない。嘘か真か疑う時間が命取りになることを、本能で察する。
すぐに袋を開けて、レンドに投薬する。薬だけでなく包帯も入っていたので、止血もできそうだ。
イカヅチはアグルに向けて何か放とうとしたらしい。刹那がすかさずそれをナイフで弾く音がした。そして、そのままイカヅチに駆け込み、ナイフを振り回すのが伝わってくる。
「ほう? 動揺していないと良い動きだ」
そう返すイカヅチの声は、落ち着いている。刹那のナイフを軽々避けたのだろう。
「当然。怒りも込めてる」
アグルはいつ自分たちが狙われるかわからない故に、止血をしながらも状況の把握に努めようとした。
刹那が、イカヅチからの投擲をナイフの返しで防ぎ、余っている手で投擲したのが伝わってくる。イカヅチはそれを避けて、ナイフを振りかざす。刹那が躱し、代わりに投擲をし、更に斬りつける。
攻めきれず踏みとどまったイカヅチの舌打ちが聞こえる。
「人形風情が、怒りだって? 人間様のモノマネをするんじゃねぇよ」
アグルはレンドの顔色を確認した。驚くほど青白く、意識が彷徨ってきている。
「レンド!」
何度も名前を呼び、引き留めようとする。その間にもイカヅチが背後でアグルに向けて投擲する気配がある。それを全て、刹那が弾いていく音がする。
「今は、私が相手。アグルたちにちょっかいはかけないで」
「今度はヤキモチの振りか? ハハ! 笑わせてくれる」
アグルは落ちていたナイフを拾った。
カキンと音がして、拾ったばかりのナイフの刀身に針がぶつかる。刹那の取りこぼし分だ。
「ごめん」
遅れて、刹那から謝罪がある。何と返せばよいかは分からなかった。そもそも刹那がアグルを庇うことから意味がわからないのだ。それよりも、レンドを助けたい。
「うぅ」
レンドのうめき声にはっとする。
「レンド!」
思わず名前を呼ぶと、レンドの焦点がはじめて合った。
「クソ……」
ぼやくレンドの声は思っていたよりもしっかりしている。
「良かった、意識がはっきりして……」
「最後に浮かんだのがあいつの声とか、絶対嫌だからな」
何を言っているのかアグルにはよくわからなかったが、レンドが苦虫を噛み潰したような顔をしていることには気づいた。
「何でも良いです。レンドが助かるなら」
そう言いつつ、アグルは気がつく。レンドの腹の血が止まっている。もちろん、アグルは必死にレンドの腹を抑え止血していたが、それにしては早かった。恐らく、寸前で致命傷を避けたのだろう。毒のせいで意識が朦朧としていた部分が大きいのかもしれない。
「悪いが、あとは頼む」
「レンド?」
レンドは身体を起こそうともしなかった。ただ、じっと目を閉じている。意識はあるのだ。少しでも回復させようとしているのだろう。
これがアグルなら無理に動いてしまう。身体に負担になると判断して、毒が抜けるまでじっとするという選択肢を取れる人間はあまりいない。
ましてや、それが敵地のど真ん中であらば尚更だ。
「はい」
頷きながらも、アグルはナイフで飛んできた針を弾いた。
……ならば、アグルがやるべきことは決まっている。
イカヅチと刹那の剣戟の合間から、足音が聞こえてきた。忍び寄るのではない。あくまで堂々とした音である。
アグルは何度かやり合ったから知っている。アグルの実力でも、この足音の持ち主には敵わなかった。ただの暇つぶしにもならないと言われ木刀を手にされたときには、五分と持たず意識が途絶えた。片手だけで相手をすると宣言されたときも同じだった。イカヅチと組んで襲って来いと言われたときには唖然としたものだが、逆に返り討ちにされたのは自分たちだった。
それだけのハンデがあっても、いつも怪我をするのは自分たちで首の皮一つ切れやしなかった。イカヅチよりもずっと好戦的で野蛮な戦い方をするにも関わらず、決して隙がつけない。それはまるで獰猛な豹を相手にしているかのようだ。
戦いのなかでこそ輝く、真に戦いを愉しむ生き物。それが目の前にやってきた男、抗輝の正体である。




