その691 『ひとでなし(レンド編4)』
「仲間、だったんです」と、そう告げたアグルの顔は悲痛そのものだ。頭を抱えたくなる気持ちもわかった。『魔術師』の悪どさがアグルの首に縄をかけているかのようだ。
「ジルにマレイユ、ベッタ。みんな……、俺がこの手で……!」
自分の足をこれでもかと殴って、アグルは涙を堪えるように顔を伏せる。
その様子をぼんやりと眺めているしかできないのは、衝撃に中々立ち直れないでいるからだ。
「それは間違いないのか。お前の記憶を歪められている可能性はあるだろう」
やっとレンドの口から出た言葉は、しようもない時間稼ぎだった。
仮にアグルが暗示に掛けられていたとしても、アグルにとってそれは紛れもない現実だ。だから、きっとレンドの今の言葉は届かない。
ただ、アグルの言葉を改めて吟味する時間が欲しかった。仲間を殺したと勘違いさせる暗示というものは、あるのだろうか。そんなものがあるのだとしたらあまりにも下劣だが、もし暗示でなく実際に起きたことだとしたら、それはそれであまりにも恐ろしい現実である。どちらにせよ、『魔術師』に翻弄されるアグルが不憫でならなかった。
「手に感触が残っているんです。あのときの悲鳴が聞こるんです。こんなの、作り物には思えない。誰かを殺してなければ絶対に感じない感覚だ」
暗示だと、全て『魔術師』のせいだと言って、一笑に付せたら良かった。それができない。アグルのその言葉は生々しく、レンドには理解のできるものだった。
人殺しという悍ましい感覚。あまりにあっけなく、命を絶つことの、恐ろしさ。あれは実際に体験したことがなければ決してわからない。
如何に人の感情を操る魔術とあれども、体験したことのない未知の感覚を再現できるとは思えない。
そうしっくりきてしまったからこそ、ぞっとした。
これでは、ただの暗示よりたちが悪い。居場所を自分自身で壊させて、心を折るやり方だ。魔術ならば、解けばよかった。それが、今回の場合はそうはいかない。過去は巻き戻せないのだ。
頭を抱えるアグルに、レンドは喉を潤そうと必死になった。舌を動かし、気の利いた言葉を告げねばならない。選択を間違えれば、きっとアグルはこのままだ。
それだけは駄目だと、レンドは意志を強くする。
「だったら、せめて俺と来い」
だから、レンドは手を差し伸べることにした。『魔術師』から一刻も早くアグルを引き剥がすために、切り離すことにした。
「え?」
理解できない顔で見上げるアグルが、数年前と変わらずまだ幼くみえた。
「たとえセーレに戻れなくとも『魔術師』に付き合う義理はないだろう。俺たちは元々ギルドを転々としてきたんだ。いつでも好きなところにいける。わざわざここで用心棒なんかすることはないだろうが」
セーレの皆に話しても、きっとアグルのせいだと怨む人間はいないはずだ。けれど、それではアグル自身の居心地が悪い。それならと、レンドは提案したわけだ。セーレを捨て、二人でまた、違う場所に行こうと。
「それは……、俺に居場所がなくて」
「居場所なら俺が用意する」
ないなら作れば良いというだけのことが、今のアグルには分からないのだ。それほどに追いつめられている。
「お前の友人を殺した『魔術師』と一緒にいる必要は、ないだろう?」
「え?」
何気ない一言のつもりだった。それが、アグルには何のことか分からないようで、きょとんとされる。
「なんのことですか?」
「何って、ヘクタとかいう友人がいたんだろ? そいつは『魔術師』に殺されたようなもんだ」
アグルは理解できない顔をした。その反応で確信する。アグルに掛かった魔術の正体にだ。
「お前はさ、無理やり従わされる暗示には掛かっていないだろうが、記憶はいじられているぞ」
ある種の確信を持って、レンドは告げた。
「お前が殺したのは仲間じゃないだろ。友人だ」
アグルの呆然とした顔を、忘れられない。ぽっかりと空いた記憶を手繰り寄せようとしてか、頭を抑えているのが痛々しかった。
「俺が誰を?」
アグルはきっと、人を殺そうとしたことがある。故に、死への恐れがなく、生々しい人を殺した感覚が残っている。
「いや、誰であってもこの手でやったことは許されることでは」
そして、アグルがそうしなければならなかった理由ははっきりしている。
「関係あるさ。お前は昔から優しいからな」
殺してくれと頼まれて、できなかったと言ったのは本当だろう。過去にアグルに聞いた限りでは、嘘をついているようには思えなかった。おそらく最終的に、友人は自身でとどめを刺した。
けれど、アグルがそれまで何もしなかったわけではないはずだ。
「頼まれたら相手の意図を汲もうとする。たとえ、どんなことでもな」
殺そうとして、できなかったのだろう。刺せなかったのではなく、ろくにナイフを触ったこともなかった素人だったから、友人を無駄に傷つけただけだったといったところか。
「俺は、それじゃあヘクタを? それなら、手に掛けた感覚はずっと前のことで、返り討ちにした相手は一体?」
悩んでいるものの、自分の記憶がおかしいことを疑い出したことは伝わった。これなら、あとはワイズにみせたほうが早いだろう。
「ほら、早く帰るぞ。こんなところ、長いは無用だ」
アグルは素直に頷いた。もう、『魔術師』に仕えるつもりはなさそうである。
ほっとしたときだった。全く感じなかった気配とともに声が聞こえたのだ。
「オイオイオイ、何を口説いてくれちゃってんの?」
相手の動きより前に身体が動いた。動いたからこそ、駄目だった。
アグルの背後に現れた突然の影が、ナイフを構えて襲ってくる。アグルを庇わなければ、アグルの首に突き刺す位置である。前に出なければ間に合わないと分かっていた。だから、アグルを突き飛ばしてナイフを受けようとしてしまった。
『死ぬなよ、レンドルド君』
いつかの言葉が思い起こされる。命を大事にするからこそ、自分の命を投げ出しかねないとそう珍しく先輩風を吹かせたヴェインの顔が浮かぶ。
そして、アグルを突き飛ばしたその先に、はじめからそうなることを悟っていたと思われる相手の歪んだ顔が見えた。レンドの視線は、ナイフを構えた男の反対側の手を捉える。そこに、稲妻の形をした見たことのないナイフがある。それが、レンドでも捉えきれない勢いで迫る。
避ける暇など与えられなかった。肉に食い込む感覚に、鈍い音。それが唯一感じられた情報だ。
「レンド!」
声が、遠くで聞こえる。視界が真っ赤に染まり、血の匂いが充満した。
意識が途端に覚束なくなる。アグルの必死の声だけが遠くで聞こえた。否、アグルとは別に聞き覚えのない男の声がする。
「駄目だねぇ。人をやりなれていないから、動きが悪い、悪い、悪い。スナメリのレンドって言えば一昔前は超有名人だったのになぁ」
馬鹿にする口調に怒る気力も沸かなかった。
「やめろ! レンドに近寄るな!」
ただ、アグルが必死に声を上げてレンドと男の前に立ち塞がっているのだけは分かる。
故に、逃げろと叫んだ。そのつもりだったが、声にならなかった。
「オイオイオイ、誰にナイフを向けているんだって。少し前までイカヅチさんって呼んでくれて可愛かったのにナァ?」
男の愉快な声と、アグルの必死な声だけが、聞こえてくる。
アグルが男にナイフを向け、男が嬉しそうにやり合う気配。
「そうか。そんなにこの男が良いならこうしよう」
ナイフを掴んだ手を抑えられて、レンドへとナイフを向けさせられるアグルの姿。
「これでこいつをブスリとすれば、もう確実に帰る場所なんてないだろう?」
手を震わせて抵抗をしようとするアグルの泣きそうな顔。
それらが全部カーテンの向こう側の世界のやりとりのようだった。




