その682 『どうしたいか・前』
ワイズの宣言に、食堂がしんとなった。
イユは何と言っていいか分からなかった。あまりに唐突過ぎて、理解が追い付かない。
「それは、どうしてでしょうか」
リュイスがイユの疑問を弁明する。
「そもそも僕がいつまでもあなたたちの船にいる理由がありません。潮時です」
ワイズはきっぱりと拒絶するように答えた。
確かに、ワイズはセーレの仲間ではない。『魔術師』だ。あのブライトの弟なのだ。
それなのに、イユは命を助けてもらい、多くの仲間は今も治療をしてもらっている。姉についての贖罪とそう言うならば、既に返してもらっている気さえしている。勿論仲間は返ってきていないが、そう言いたくなるほどには、ワイズはセーレに貢献している。
「心配しなくても、先日までにタラサにある古代語の類はほぼ訳しておきました。あなたたちが今後船を使うことで、何か困ることはないでしょう」
そういう心配をしているのではないと、ワイズに言われて気がついた。
「怪我人も最後に治癒魔術を掛けて行きます。桜花園で薬も調達しました」
あくまで淡々と告げるワイズの言葉は、冷たい。だからこそ、苦しい。
「そうじゃないわ」
イユは思わず遮った。
「そういう理由で、ずっと一緒にいたわけではないでしょう」
「では、どういう理由でしょうか」
ワイズは赤い目をイユに向けた。それは恐ろしいほどブライトの目と似ていた。
「まさか僕のことを仲間だとでもいうつもりですか? 忘れたんですか? 僕はあなたたちを裏切ったブライト・アイリオールの弟ですよ。それに、あなたの嫌いな『魔術師』です」
言いたいことを封じられて、イユは言葉を失う。あくまで寄せ付けてなるものかという、ワイズの明確な意思を感じたのだ。
「それで? お前はここで下りるとして、どうするつもりだ?」
「そんなものは僕の勝手でしょう」
レパードの疑問に、ワイズは淡々と返す。
「いいや。ここでお前が捕まれば、大事になるだろう。『魔術師』に記憶を読まれれば、俺らのこともばれるわけだ」
レパードの言い方もどこか淡々としていて、息苦しさを感じた。どうしていつもこう、理屈を並べないと話が進まないのだろう。もどかしさが胸中に生まれる。
「……船を借りますよ。笠で顔を隠せばばれないことは分かりました。明鏡園までは検問がありますから、横道に逸れるギルドを探します」
「シェイレスタに戻るつもりか」
レパードの質問に、ワイズは頷く。
「帰れると思っているのか、今のこの状態で」
「……帰りますよ」
そうは思ってはいない声だった。イユもようやく、ワイズの異常な態度に気がつく。
「ねぇ、何があったの?」
イユが口を開くより先に、リーサが尋ねていた。
「幾ら何でも急すぎるわ。ブライトさんに何かあったの?」
「……」
それは的を得ていたようだ。ワイズは紛れもなく一瞬言葉を失った。
「確かに、そろそろ何かあってもおかしくはないと思っていた」
レパードがワイズの反応をみて確信したように告げる。
「シェイレスタはイクシウスやシェパングに比べると力が弱い。戦争になれば、まず負けるだろう。それならば、戦争を起こさないように何か手を打たないといけない。声明なんかじゃ反応はないからな」
イユはワイズが手にしていた手紙を思い出す。あそこに何か書いてあったのは、間違いない。力不足を嘆く文だけではなかったのだろう。
「そこでシェイレスタは、魔術書の窃盗容疑で指名手配されているブライトの処遇について考えたんじゃないのか?」
当然行き着くべき内容だった。
ワイズは観念したように溜息をつく。
「……そうですよ」
いやいやながら認めたワイズの顔は苦虫を噛み潰したようである。その顔で、告げた。
「国葬が終わった五日後、シェイレスタはブライト・アイリオールの処刑を行います」
そのとき浮かんだイユの感想は、この姉弟は本当に不器用なのだということだった。
「その処刑、意味あるの?」
イユの言及は、裏に抗輝がいることにある。あの『魔術師』の目的が戦争そのものだとしたら、きっとブライトの死ぐらいでは解決できない。
「おっしゃる通り、そうしたところで大して意味があるとは思えません。ただ、時間稼ぎにはなると思っているみたいですね」
それがどれぐらいになるかは分からない。数日か、数か月か、運が良ければ数年だろうか。けれど、たったそれだけの時間稼ぎのために処刑されるのだ。呆れて物も言えない。
「ブライトはどこまでわかっていたのかしら」
「正直、そこは本人に聞かないと何とも言えません。ただし、魔術書を盗んだ理由には心当たりはあります。和平の為とのことですから」
実際は、戦争を止めるためと言いつつ、今や戦犯に仕立て上げられている。魔術書に深淵を生み出す秘密兵器が載っていたとの噂を思い出して、溜息が出そうになった。
恐らくは、元々戦争は回避できないと考えていたのだろう。だから、抑止力を手に入れようとした。
「『大いなる力』とやらをあてにしたんでしょう? 結局は力で抑えようとした」
ワイズは首を横に振った。
「深淵の話であれば、それは違います。……調べるのに手間取りましたが、魔術書に描かれていたのは魔術障壁のことでしょう。それを国に応用するつもりです」
リュイスたち、カルタータの出身者は戸惑ったように顔を見合わせた。
「それは、カルタータの障壁を、シェイレスタの国全てに覆うつもりということですか」
リュイスが信じられないという顔をする。
「そんなことは……、不可能です」
「どうしてそう言い切れるのですか?」
ワイズは、リュイスの断言に不思議そうな顔をする。その手には、手紙がある。恐らくはワイズが国王や伝手を辿って独自に調べた結果がそこに残っている。
「魔術障壁は入れる人間を特定し、それ以外の人間は入れなくする結界ということですよね? しかも、カルタータでは半永久的に機能するはずだった。内側から破らない限り、絶対の障壁のはずです」
答えないリュイスにしびれを切らして、ワイズは続ける。
「戦争が起きても入り込まれないなら、シェイレスタは絶対的に安全です。それが伝われば、他国は攻めあぐねるでしょう」
それが、和平という発言に繋がるのだ。ようやくブライトの目的が見えてきた気がする。けれど裏を返せば、そうした魔術でもない限りシェイレスタは他国に襲われると分かっていたことになる。
「つまり、戦争はどうしても起きるものだと見越していたということよね?」
「そうなるでしょう」
ワイズもイユの確認については異論がないようだ。
とはいえ、それを聞いたイユとしては複雑な心境である。以前マドンナが強がる話をしていたことを思い出す。確かにシェイレスタは強くない。隣国に狙われるのは分かる。けれど表向き、正々堂々と侵略することは今の隣国にはできないことらしい。存在感の強くなったという、ギルドからの批判があるのだろう。だから理由付けに走るわけだ。偽装でも噂でも何でも使って、抗輝という男は今の場を演出している。
「でも、それは無理です」
リュイスがぽつりと呟いた。
「無理とは?」
「障壁はそういうものじゃないんです。そのような何も犠牲を強いないものでは……」
きっと魔術書にも載っていない、カルタータにいる人間にしか分からない何かがあるのだ。そう思わせるに足るリュイスの発言だった。
「何か触媒が必要ということですか」
ワイズの言葉に、リュイスは蒼い顔をして頷く。
「その規模なら、きっとシェイレスタの人間は全て滅びると思います」
リュイスの発言に驚いたのは、ワイズだけではなかった。リーサたちも知らなかったとみえ、絶句している。
「障壁の触媒は、『龍族』以外の命でした。僕はそうと知らずに……」
言葉を継げなくなったリュイスが、顔を伏せる。十二年前に何かがあった。そう思わせるに足る態度だった。
――――どうするの、ブライト?
イユは心の中で呟いた。これは、ブライトには想定外のシナリオではないだろうか。ここまでくると、酷く滑稽だ。命がけで盗んだ魔術書は役立たずで、むしろ戦争の道具ではないかと危険視されている。挙句の果てに自分は処刑台に送られて、少しだけ戦争回避の時間に役立つだけである。
結局のところ引き金を引くのは、平和を望んでいたはずのブライトや克望たち本人である気がして仕方がない。平和を求めた結果、ブライトは魔術書を盗み世界的な犯罪者になった。克望もまた、ブライトとやり取りをし暗殺されるに足る口実を作った。そうした行為が巡り巡って、抗輝に武器を与えた。
勿論マドンナの件は別物だが、それだけであればこうした事態には至らなかっただろう。
自業自得だと笑ってやりたいのに、顔が引きつった。どういう感情でブライトに向き合えばよいか、いまだに分からないでいるからだ。




