その673 『逃げ道』
ようやく見つけたとは、声に出さなかった。扉を開けた先で窓から外を眺めるリュイスの背中がみえる。どうせイユの気配には気付いているだろうが、声を掛けるまでリュイスの反応はなかった。確かにクロヒゲが言うとおり、いつも通りとは言えないかもしれない。
「寝ていなくていいの?」
「はい、目が覚めてしまって」
休憩室の大窓は、相変わらず外の景色がよく見える。外からだとこれが意外なほど、様子が分からない。にも関わらず真っ直ぐにぶつかってくる赤い影を見つけてイユはぎょっとした。
「大丈夫です。アグノスです」
窓は音も阻んでいる。だから名前が出たからといって、喉を鳴らしながら旋回するアグノスには、聞こえていないはずなのである。
「ひょっとして、飛竜って地獄耳なの?」
アグノスの蹴りが窓に的中する。肉球がはっきりと窓に映り込んでいた。
「人間よりはずっと優れていると思います」
その人間に『龍族』は含まれるのだろうかと、ふと思った。出会ったときのリュイスは自分を人間の枠に入れなかった。人間だと主張しながらも、はっきりとしたズレがあることを感じている節があった。
「あっ」
アグノスが雑木林のなかへと消えていくのを見て、イユは思わず声を上げた。
「見張りをしてくれているんです」
「信用できるの?」
「何かあったらすぐに伝えてくれますから、大丈夫そうです。人の気配には敏感ですし、頼りになります」
今一番注意しているのは魔物より人だ。雑木林の中にいるとはいえ、タラサは大きい。見つかったときに備える必要はある。
「まぁ、仕事をしっかりやることは分かったわ」
配膳の仕事のことも思い出して、イユも素直に認める。
「そういえば、アグノスはペタオに会ったの?」
同じ人外同士ということで気になった。アグノスが何か聞きつけたように再び戻ってくる。小首を傾げていた。
「ペタオに逃げ場がなくなるから、やめてあげてください」
言ってはいけないことだったらしい。この感じだとアグノスは医務室の奥までは出入りしていないようだ。
ペタオの羽は折れたままで、飛べない状態が続いている。刹那といるのを嫌がっているが、薬を塗るのは刹那が請け負っている。一羽と一人の微妙な距離感は続いているままだが、代わってやる暇はないのでそっとしてあった。
「確かにこれ以上ペタオに負担を掛けたら、羽どころではないわね」
過去アグノスがぺろりと鳥を食べていたのを思い出してイユは納得する。鳥に胃痛があるのかは謎だが、同情はする。
「何でもないわ」
まだ首を傾げたままのアグノスに言ってやった。
「そういえばゆっくり話す暇はなかったけれど……」
クロヒゲの心配をそのままにしておくべきではない。そろそろ切り出してみることにした。
「祠では何かあったの?」
岩が崩れていたのは、リュイスの魔法で切り崩したからだ。つまり、祠を埋めないといけない事態があったということになる。
「大丈夫です、心配するようなことは何も」
リュイスのそれは、イユにとってはわかりやすかった。
「絶対にそれ、大丈夫じゃないやつよ」
「……そう、ですね」
やはり何かあったのだ。リュイスはいつも通りの顔を崩さない。完璧なほど、表情が普通である。だからこそ、それが逆におかしい。いつものリュイスならば、もう少しイユたちのことを心配する。
「少しだけ、予定外のことが起きました」
ぽつりと、リュイスの呟きが黄昏の空に零れた。
「祠にも追手がきたの?」
「はい。ですが……」
煮え切らないリュイスだが、イユはじっと答えを待つ。そうすれば答えると、分かっていた。
「子供だったんです」
意外な内容だった。
「どういうこと? ただ祠にお供えしにきた子供?」
つまり追手でも何もない人間を、追手と勘違いしたということだろうか。
「いいえ、戦いの訓練は受けていました。身のこなしが普通でなかったので」
克望は式神だけでなく、子供を訓練させていたということらしい。
「魔法の威力を見誤ったんです。祠の外から伸びる影が大きかったので……、いえ、言い訳ですね」
思った以上に、相手が弱かったということだろう。ワイズに治癒魔術が使えることも考慮すると、本当に一瞬のことだったに違いない。
「不殺を貫くつもりでした。できると思い上がっていたんです」
だから、リュイスの押し殺した感情から言いたいことを察してイユは答えた。
「事故、なんでしょう?」
「……それは」
逃げだ。逃げ道を与えた。
けれど、逃げることの何がいけないのだろう。イユは今までずっと逃げてきた。兵士たちから逃れるという物理的な逃げもあるが、生きるために誰かを踏みにじってきた逃げもずっと多い。今のイユは逃げた結果、ここにいる。
「確かにやってしまったことは変わらないわ。けれど、意図的ではないのならば、それは事故で良いじゃない」
それは決して本人または本人の家族を前にして言える言葉ではないだろう。けれど、イユが救いたいのは顔も知らない子供ではない。リュイスだ。
「……そんなこと、思えません」
滲むように吐かれる言葉。そう返るだろうことは分かっていた。きっとこう言えてしまうことこそがリュイスの強さだ。イユにはできない。イユは諦めてしまった。被害者面して、生きるために多くを捨ててきた。拾う努力をしたのは、セーレだけだ。それが半分叶ったからこそ、リュイスが尊ぶ理由も分かる。
けれど、リュイスの理想は、難しい。相手はリュイスを殺そうとやってきたのだ。リュイスがわざと誰かを襲ったのとは違う。殺し合いだ。そこに、善悪など存在するのだろうか。子供には子供の、リュイスにはリュイスの事情がある。そのなかで、リュイスは殺し合いをしたくないと思った。そうして信条を貫いてきたというだけだ。
確かに殺しは悪いことだ。そういえるだけなら単純だ。
けれど、実際にはそうはいかない。戦いのなかでは、全てが自分の思いどおりには動かない。自分のなかで決めた一線を絶対に越えられなくとも、起きてしまうことはある。不可能になった出来事にどう向かい合うこともまた、難しい問題だ。
「意図的でなくてもしてしまったことは、変わりません。だから……」
「だから?」
「落ち着いたら、家族の方を探そうと思います」
それで断罪でも乞うつもりか。そう言いかけて、イユはやめた。なんとなく分かっていた。その子供に家族などいるだろうかと。それに、子供の親がいたところで、襲ってきたから仕返しましたなどと言えるものだろうか。そんな事情を話されて、親はどうすればよいのだろう。
リュイスの掲げる信条は、ある意味傲慢で酷く歪なのだ。
「好きにしたらいいわ。でも、相手がそれを望むかどうかは分からないわよ」
皆が皆、リュイスのように強いわけではない。脆い人間には脆い人間の向き合い方があるはずだが、強いリュイスにはきっと弱者の気持ちは分からない。
だから、そう言い捨てることしかイユにはできなかった。




