その67 『ロック鳥、再び』
「イユさん」
切羽詰まった声で言われ、イユはアグルの名を呼ぶのをやめた。アグルをいつでも抱きかかえられる姿勢を維持し、耳を澄ませる。
はじめは足音のようにも聞こえた。救援が来たのだろうかと考えて、その足音が人のそれよりも軽い音なのに気づく。爪か何かで地面をはじくような音に近いだろう。その足音が数回続いたと思ったら止まる。
そこで、見てしまった。
廊下の先に二つの赤い光が浮かんでいる。
それが目だと気づき、雷に打たれたように衝撃を受けた。一目散にアグルを抱えて入口へと走り出す。
奇怪な雄たけびを背中で受けながら、現状に理解が及ぶ。つまり、イユたちが他の出入り口を探そうと考えたのと同じように、岩の鳥もまた出入り口を見つけて入り込んだのだと。
先方を行くリュイスが、先にはじめに入った隙間へと辿り着く。
だがその足は遺跡の外に出る前に止まった。隙間から溢れた明かりが岩のような影によって塞がれたからだ。更にそこから鋭い嘴がリュイスへと襲い掛かる。
慌てて飛び退るリュイスを確認し、ありえない現実を前に叫んだ。
「嘘でしょう!」
否定したいが、見間違いようもない。今イユの前方には岩の鳥がいて、通路からも同じ岩の鳥が赤い眼を光らせてやってきている。岩の鳥は、一体ではないのだ。
「つがい?」
リュイスの戸惑いの呟きを拾いつつ、リュイスの方向転換に合わせてイユも通路の奥へと走る。通路の片道から岩の鳥がやってきていて、隙間近くにも岩の鳥がいるのであれば、逃げるのはどちらもいないその方向しかない。
一瞬、三体目がでてくる可能性が過ぎったが、そのときは自身の運のなさを呪うしかないと判断する。
「う……」
耳に届くアグルの苦しそうなうめき声を、ゆっくりと聞いている時間はない。無茶をさせていると分かっていても、今はイユの命が最優先だ。
何より厄介なことは、遺跡の中は森と違い遮蔽物がない。岩の鳥にとってはたいへん走りやすい環境にある。後ろから大股で走ってくる気配に、身が竦む。早く手を打たないと、いくら足に自信があってもいずれ追いつかれることは確実だ。
「不味いです」
前方を走るリュイスの言葉に、これ以上何があるというのかと問いたくなった。目を細めて廊下の先を確認したイユは絶句する。
視界の先は、明るかったのだ。日の光がさんさんと遺跡の異質な床を映し出している。
壁が殆ど崩壊しているからだ。それも、岩の鳥がちょうど入れるぐらいの崩壊具合だ。これでは、遺跡の外にいながらもイユたちを追いかけてきている岩の鳥が、入ってくる。そうなれば、イユたちは挟み撃ちをされる。
「とにかく走るわ!」
岩の鳥が現れる前に走りきらなくては、確実に殺されてしまう。その危機感から、足に力を注ぎ込む。先頭をいくリュイスとの距離を縮めていく。
リュイスの姿が日の光に晒される。その後すぐに陰へ潜った。
続いてイユも日の光へと飛び込もうとした。
ところが、ちょうどまさにそこに、浴びるはずだった陽の光を遮って、黒い影が立ちふさがる。
外から持ってきたのだろう砂埃とともに、巨大な岩の鳥の姿が映し出される。その大きさには不釣り合いなほどの小さな瞳が赤く光って、イユのことを見つめているのが分かった。
「イユさん!」
振り返ったリュイスの悲鳴に近い声がイユの耳に届く。
イユは、足を止めなかった。こうなれば一か八かだという思いがある。
僅かな希望に全てをかけ、岩の鳥の足元へと突っ走る。足の表面ですら岩でできているのが目に飛び込んできた。岩を削ったかのような凹凸のあるその足を確認できるほどに近づいて、そのまま通り越す。いくら巨体でも体の全てでイユのような小さな存在を踏みつぶすことなどできやしない。必ず隙間ができる。その願望が実った瞬間だった。岩の鳥の真下を、上手く潜り抜けたのだ。
鳥たちの悲鳴が、遺跡中を揺らした。
振り向いている余裕はない。イユたちはそのまま走り続ける。盛大な音が背中を揺さぶれば、岩の鳥同士がぶつかり合ったことはわかる。逃げるならば、今のうちだという思いがあった。
ところが、走っていくと今度は別の絶望に襲われたのだ。
「行き止まり……!」
円形の建物で一周できるだろうとは、なんて愚かな見込みだったのだろう。
真っ青な壁が目の前で塞がっているのを見て、呻くしかなかった。これが扉なら突き破る手もある。
だが、今イユたちの前にあるのは前時代の遺跡の技術をもとに作られた堅牢な壁である。岩の鳥でさえ破るのは無理だと判断したから、こうして逃げ込んだのである。その選択肢がつくづく裏目に出ていることを実感するよりない。
しかも、岩の鳥がぶつかり合ってから今までの間には、外に出られるような場所は一度もなかった。そうなると先程の地点まで戻るしか道がない。
後ろから聞こえる岩の鳥の雄たけびに、とてもではないが、あそこに戻ったら命はないと感じる。
「何か抜け道などは……」
先に壁に到達したリュイスは、周囲を探っている。確かに壁には緻密な模様が描かれていて、思わせぶりだ。秘密の隠し通路でもあればよいが、イユにはその行動は望みの薄いものに思えた。
そうこうしているうちに、イユも壁に辿り着く。
「風の魔法で鳥たちを追い払えないの?」
「無理です! 一番強力な魔法を放っても、殆ど効きませんでした」
もっと良い手を意見したつもりだったが、リュイスに否定される。一番強力な魔法とは、恐らく岩の山を登っていたときにかけた魔法のことだろう。
けたたましい岩の鳥の声が聞こえ、堪らず呑んだ息から絶望の味がした。死を覚悟し、岩の鳥へと向き直ろうとする。そのときになって、視界の端に映った壁の異変に気付いた。
「え……?」
とうとう、目がおかしくなったのかと疑った。
「イユさん?」
聞かれたが、答えられなかった。代わりにリュイスへと視線をやると、リュイスの目にも、青い光が映り込んでいる。見間違いではなかった。壁に描かれているただの模様に見えた、その一部に青い光が宿っているのだ。
その模様は消えて、数秒後に再び光り……、を繰り返している。
そこで、その模様はただの模様ではないということに気が付いた。これは、古代語だ。だから、イユには読むことができてしまう。
『汝、古の血を持ちうる者のみに授ける。その手を壁へ、導きに従え』
イユはアグルを抱えた姿勢のまま、一番近くにある光っている文字へと触れた。言葉の意味は正直あまり理解していなかった。切羽詰まった頭では、手を壁にあてろと言われていることぐらいしか分からなかったのだ。ただ誘われるままに、その光に触れた。
その途端、点滅を繰り返していた光が一気に青色一色に染まる。
「イユさん!」
リュイスの悲鳴に近い声に振り返ると、二体の岩の鳥が嘴を大きく開けて襲い掛かってくるところだった。イユたちをどちらが先に喰らおうかと、獲物を前に競い合いながらラストスパートを駆け込んできているように見えた。
そこに青い光が満ちた。長い廊下に広がっていく光に、全ての音がかき消される。一瞬にして自分がどこにいるか分からなくなり、何も感じられなくなった。イユの意識は、渦の中に飲み込まれていった。




