その668 『とある子供の物語(クロヒゲ編2)』
それから、クロヒゲは命令の通り、人を観察するようになった。そうすると、不思議なことに見えていなかったものがあることに気付かされた。
奴隷の監視役である大男は暇さえあれば奴隷たちに視線をやり、どこか憐れんでいるようだった。
きょろきょろと周囲を見回していた奴隷の男は、あるとき脱走しようとして首を斬られた。
そして、料理人の男は、クロヒゲの視線に気づくとクロヒゲを手招きした。
「これを食べるといい」
「それは、命令?」
「そういうわけじゃ……。いや、そうだな。食べろ。これは命令だ」
命令ならば従うしかない。クロヒゲは貰ったクッキーを口に頬張った。ほろ苦いけれど、どこか癖になる味がした。
あるとき、船長イズベルの部屋の掃除を言い渡されたことがあった。広々とした部屋で見たことのないような調度品がたくさん置かれている。言われた通りに掃除をしていたクロヒゲは、部屋に入ってくるイズベルの気配に気がついた。
「割ってはいないだろうな」
声は鋭く、冷たかった。だがその声に疲れが窺えた。
「ほう? どういうつもりだ。奴隷風情が」
思わず椅子を引いたクロヒゲは、何も答えられずに黙っていた。自分でもどうしてそんなことをしたのか、分からなかったからだ。心臓がばくばく鳴っていて、部屋の奥で大男が心配そうに覗いていることにも気づかなかった。
「まぁ、いい。生かしておいた価値がこれで出たわけでもないからな」
興味を失ったようにイズベルに告げられ、更に手で追いやる仕草をされた。
「セレク。早く戻ってこい」
すぐに、大男から命令がある。
「はい」
その声が、助け舟のようだった。すかさず駆け寄るクロヒゲの背後でイズベルの視線を感じる。さも面白そうな笑い声を背中にぶつけられる。
「随分イグベルトに懐いているみたいじゃないか」
「ははっ、滅相もありやせん」
目の前の大男が苦笑いをしながら答える。その額から汗が一滴おちたのがクロヒゲには分かった。
「まぁ、お前たちもつまらない考えは起こすなよ。奈落の海に頭だけ還りたくなければな」
イズベルのほうを振り返ると、そこには冷たい笑みが張り付いていた。整った顔だけに凄みがあり、思わず唾を呑み込んだ。
それから、こんな出来事もあった。床掃除をしていたときに、見張り台から下りてくる大男、イグベルトを見つけたのだ。イグベルトの首には双眼鏡が掛かっていた。視線が偶然合ってしまって、見ていたことがバレたと慌てる。
「おい」
叱咤の声が掛かり、震え上がった。人間観察の命令はイグベルトのものではない。掃除以外のことに意識が向いたと思われたかもしれない。余計なことをしてしまうのは奴隷にはあってならないことである。
「折角だ。ちょっとこっちに上がってこい」
ところが、続けて浴びせられるはずの罵声はこなかった。むしろ声を潜める響きさえある。
しかもイグベルトは見張り台へと再び上がっていくのだ。遅れて、先程の言葉は新たな命令だったと気付き、大急ぎでついていく。
とはいえ、慣れない梯子は、一つ踏み外せば甲板の床に叩きつけられそうで、くらくらとする。命令という言葉がなければ、きっとその場で竦んでいた。叱咤を恐れて、クロヒゲの手足は動き始める。途中、息が切れ、空気が薄いことに気がつく。苦しかったが、命令が先だ。進んでいく。
「どうだ」
そうしてとうとう上がりきった先で、そう声をかけられた。
空の景色は、いつも甲板から見えていたはずだ。少し高度が上がったところで景色が大きく変わるものでもない。
けれど、床ばかりみていたせいか何故かとても開放感があった。世界に一人自分だけが立っているような錯覚がある。おまけに、風が強い。頬に突きつける風に、思わず目を細める。嗅いだことのない匂いがした。
「俺たちはここで、飛行船を探す。ちょっと試してみろ」
イグベルトはそう言って双眼鏡をクロヒゲに持たせた。どっしりと重いそれは、落としたら大変なことになると分かっていた。だからこそ慎重にその手に抱えようとする。
「そうじゃない。覗くんだ」
何故か笑われて、クロヒゲはよくわからないままに見慣れないレンズへとその目を当てた。
その瞬間、世界が変わった。
そこには、レンズを通してしか見えない、何よりも自由な世界が広がっていた。
細い雲の辿った先、飛行岩が散らばり、そこを見慣れぬ白い鳥が飛んでいく。遥か先で小島が浮かび、そこから落ちていく水が虹を浮かび上がらせている。
遠いところまで見渡せるその目は、クロヒゲにはなかった視点だった。いつも狭い世界を覗いていたのだと気付かされ、胸が熱くなるのを感じる。
そのとき、右端に動くものを見つけた。
「飛行船って、あれ」
思わず口に出てしまい、慌てて閉じる。
「何? どこだ」
尋ねられて答えると、驚いた声が返った。
「おぉ。セレスは目が良いんだな。こいつは頼もしい」
褒められたことは初めてだった。それを言うなら、こうして双眼鏡を使わせてもらったのもはじめてだ。
恐らくはイグベルトの気まぐれだ。そのおかげで、世界は変わった。
以降、イグベルトは見張り台にクロヒゲを伴うようになった。幸い目が良いのは確かで、初回以降もクロヒゲは言われたものをよく見つけた。見張り台で空を見続けることは、掃除をし続けるのとは全く違った感覚があった。
つい口が軽くなってしまい、クロヒゲは時折疑問を口にした。
「あの飛んでる生き物は何?」
「あれは、渡り鳥のシマナシツバメだ。今は移動の時期なんだろう」
イグベルトは不思議と怒らず、素直に答えた。それどころかクロヒゲにもわかるように詳しく説明を続けた。
「シマナシツバメは、秋から冬にかけてイクシウス方面を離れシェパングへと飛ぶ。群れで引っ越しをするわけだ。俺らみたいな飛行船と同じだな。何でもイクシウスの冬は堪えるらしくて、少しでも暖かいシェパングに向かうんだと」
「秋? 冬?」
「まさか季節も知らないのか」
慌てて謝ろうとしたが、先にイグベルトから笑い声が上がる。
「秋は、そうだなあ。少し陽が落ちるのが早くなる頃のことだ。冬っていうのはなぁ」
続く説明にクロヒゲはきょとんとする。イグベルトは普段、奴隷相手に怒鳴るのが仕事だ。だからこんな優しい声を出せるのが意外だった。
クロヒゲがイグベルトとともにイズベルに呼び出されたのは、数ヶ月後のことだった。
「聞いたぞ、イグベルト。この餓鬼を懇意にしているみたいだな」
「とんでもありやせん」
慌てふためくイグベルトを、イズベルは面白そうに眺めている。
「情でも湧いたか?」
必死に首を横に振るイグベルトの姿が、イズベルの瞳に小さく映る。
「ただ、こいつは目が良くてございやして」
「言い訳は聞きたくないな」
何も話せなくなったイグベルトの様子をみるのが楽しいらしく、イズベルの喉が鳴った。
「まぁ、いい。目が良いのは当たりだな。生かして正解か」
「そこまでわかっていての行動とは、御見逸れしやす」
すかさず告げたイグベルトに、イズベルは鼻を鳴らす。
ここまで呆然と会話を聞いていたクロヒゲは、以前も『生かす』という言葉を聞いたと思い出した。それがいつのことだったか記憶を辿ろうとしたところで、イズベルの口が開かれる。
「ふん、まぁいい。それなら、この餓鬼に甲板長の仕事を与えろ」
目を瞬いてしまった。その役職は、イグベルトのものだったからだ。
「はっ! え、あのっ、それなら自分は」
イグベルトも動揺したようである。
「こいつは奴隷だ。お前は奴隷の監督者だろう。給金はお前に与える」
「ありがとうございやす!」
弾かれたようにお辞儀をするイグベルトがよほど滑稽のようで、イズベルは唇を歪めて笑いを堪えていた。
「せいぜい、奴隷を鍛えることだな。飴があれば頑張れるんだろう? お前たちのような輩は」
見下す言い方だった。きっと、これがイズベルの本音なのだろう。イズベルにとってイグベルトの様子はひどく滑稽に映るのだ。その理由はクロヒゲには分からない。何故、クロヒゲを登用する気になったのかも不明だ。
ただ、クロヒゲはこうして、奴隷にして甲板長の仕事を与えられることになった。




