その664 『楽しみ』
浴室を出たイユは、五分のつもりが倍以上もいたことに気がついた。とはいえ、会話で緊張が解れたこともあるのか落ち着いている。少し気怠いが、それは湯上りの効果だろう。
「うん! やっぱりお風呂は気持ち良いね。またライムも入れないと」
クルトは持ち込んでおいたらしい水を飲み、大きな息をつく。
「そうね。言われてみれば私より先に起きているはずなのに姿を見てないわ」
「レッサがいるなら大丈夫だと思いたいけど、また機械にしがみついてそうだなぁ」
クルトにはライムが機械と一緒にいるほうが回復すると言っていたという話をしていない。よく当てていると感心する一方で、煤だらけのライムの顔が浮かぶ。
「落ち着いたら洗いましょう。リーサもいるなら幾分楽なはずよ」
犬猫を洗うような言い方になっていたが、違和感がなかったので気付かなかった。
「リーサで思い出したけど、時間的にご飯だよね?」
イユも言われて気がつく。眠たい気持ちもあったが、今行けば配膳の手伝いぐらいはできるかもしれない。
廊下を出て歩いていると、アグノスが重そうにバスケットを咥えながら素通りしていった。イユたちには気がついているだろうが、ちょっかいをかける余裕はないようだ。
「うわぁ、重そう。あれはリーサの発案かなぁ」
「よく分かったわね」
マーサのいう、滋養のよい優しい食事とは南瓜スープのことで間違いない。暫く南瓜スープは続くことだろう。重い水筒から開放される日々は遠そうだ。
厨房の扉を開けると、そこにはリーサとマーサがいた。ちょうど人数分の食事を盛り付けている。
イユはマーサに問いかけたくなった。今厨房にいるということは、シェルは落ち着いたのだろうか。まさか今も刹那と二人で過ごしているのだろうか。
ところが、疑問をぶつけるより前にリーサに声を掛けられる。
「あら、クルト。起きたのね! それにイユも」
「えぇ。手伝いにきたわ」
「起きたよって、あれ。ボクも手伝い?」
自分のことを指さして驚いているクルトは置いておき、イユはマーサへと視線を向ける。これといった反応はなく、にこやかな笑みを向けられるのみだ。それではいつもどおりのことなので、よくわからない。
「まぁ。それなら、厨房までお願いするわぁ」
南瓜スープに、ライス。それに、燻製した鳥をバラしたサラダ。御盆に載せられたそれらの重みが腕に伝わると、もう話をしている余裕はなかった。
渋々歩きながら、料理を見下ろす。今朝は確か、サラダの代わりに明鏡園の特産だという冷奴だった。少しとはいえメニューを変えられるのは明鏡園で補給したお陰と、リーサたちの工夫故だ。
食堂に出ると、クロヒゲとレパードがいた。二人で何やら話し合っていたところのようである。クロヒゲは音に気がつくと、すぐにイユのお盆を受け取りに来る。
「わざわざ、すみやせん」
恐らくラダと交代する前に腹ごしらえするつもりで来たのだろう。そのついでに情報共有をしているとみた。
「構わないわ」
そう答えている間に、クルトがレパードへとお盆を置く。会話が聞こえてきた。
「起きたのか。動いて平気なのか」
「ボクはもっと休みたいんだけど、イユの人使いが荒くてさぁ」
心外である。
「ちょっと、別に荒くないわよ!」
何故かレパードに笑われてしまった。
「まぁ、思っていたより元気そうで何よりだ」
そう言って席を立つレパードに、クルトは首を傾げる。
「病み上がりなんだろ? 自分の分は自分で取りに行く」
やった! と手を挙げて喜ぶクルトに、なんとなく面白くない。
若干機嫌を損ねつつレパードとともに厨房に戻ると、リーサとマーサが片付けをしているところだった。マーサに声を掛けようとしたところで、レパードが口を挟む。
「マーサ。ちょっと良いか?」
「あら、どうかしたのかしら?」
そう言って二人で廊下に出ていってしまうので、完全に話す機会がなくなってしまった。
不満に思いつつも、代わりにリーサへ声を掛けようとする。今のやり取りが聞こえていたはずなのに、変わらず調理器具を洗い続けるリーサは、どこかぼんやりしてみえた。
「リーサ?」
「どうしたの、イユ? 食事ならそこよ」
いつものリーサだ。話し掛ければ、はっきりと応対する。洗い物も卒なくこなしている。
けれど、心なしか元気がない気がする。ミンドールやレヴァスを見たショックを引きずっているのかもしれない。
「そうじゃなくて」
イユはそこで言葉に詰まった。大丈夫かと聞いても、リーサは平気だと答えるだろう。それが分かってしまったからだ。
小首を傾げるリーサに、イユは言葉を変えることにした。
「……一緒にご飯を食べない? ちょうど休憩時間なの」
「えぇ、そうね!」
嬉しそうな笑みに、すっとイユの心が軽くなった。慰めるつもりで掛けた声だったが、気が晴れたように感じるのだから不思議だ。イユ自身、リーサとの食事を楽しみにしていたのだと自覚した。
食堂に戻ると、クロヒゲとクルトが食事をしながら会話に花を咲かせている。
「……クロヒゲこそ、聞いたよ? 一人で鳥籠の森を探索しようとしたんだって?」
無茶のしすぎだとそう言いたいらしい。因みに、詳細を伝えたのはイユだ。それがバレているらしく、クロヒゲの視線がイユに移る。苦笑いで返した。
クロヒゲはわざとらしく声を張る。敬語なあたり、イユに聞かせたかったのだろう。
「いやぁ、まさか気付いたら烏に啄かれているとは思いませんでしたや。髭が長いお陰で腹の当たりは狙われなかったようで助かりやした」
笑えない冗談である。少し遅ければ亡骸で見つかっていたかもしれないのだ。その証拠にクロヒゲの身体は至るところ傷だらけだ。齧られた耳など一部治らない傷もあると聞いている。
「いや、怖すぎるでしょ。生きたまま喰われるとか」
しかも誰よりも早く起きて、倒れていたヴァーナーたちを運ぶ手伝いをしたとも聞いている。齧られた状態でよく力仕事をする気になるなと、感心したいところだ。
「まぁ、お陰様でこうして生きていやすから、終わりよければすべてよしってやつですや」
元気なことをアピールしたいのだろう。笑い声を立てる様子を見て、イユではなくリーサに聞かせているのだと気が付いた。
きっとリーサはミンドールやレヴァスだけでなく、他の仲間の容態も心配しているのだ。
「リーサ、この辺に座りましょう」
クロヒゲたちとは少し離したところで、イユは席につく。クロヒゲには悪いが、今は二人で食べたい気分である。
何よりクロヒゲの元気アピールは、食事中に聞くには厳しいものもある。
リーサも大人しく座って、食事を始める。何て声を掛けるべきか悩んでいると、リーサから先に口を開けた。
「イユはいつまで休憩できるの?」
「これといって、聞いていないわ。状況が変わらないとどうにもならないから」
きっと、リーサにもわかっている話だ。それでも話題作りのために、わざと振ったのだろう。
「リーサこそ疲れていない? 何か手伝うわよ」
「今も配膳をしてもらったし、十分よ。イユだって起きてからそんなに時間が経っていないのに、動きすぎよ」
リーサならそういうだろうなと、思っていた。
「良いのよ。好きでやっているのだから」
きっと、リーサもイユの返しを分かっていた。いつもしてしまう、他愛のない話だ。そうしていつもの言葉を話しているうちに、ようやく口が軽くなってくる。以前まで話せていたことが当たり前になるまでに、油差しでも使うように口を緩めないといけない。
どういうわけだか、それが少し楽しかった。口が緩みきってしまうと、どんどん話題が出てきて更に楽しさが加速する。そうだったと、気付かされる。あれをしないと、これをしないとと、追われているときとは違う。ただ純粋に今に夢中になれる。そうして、その時間を分かち合える友がいる。
ゆったりとした時間とはこういう世界を言うのだったと噛みしめる。
一度、三人で食事の支度をしたのとはまた違う感覚だ。あのときは懐かしさを味わっていた。今は会話を堪能している。
「それで、ライムが水を抜いてしまったのよ」
「まぁ。相変わらずね」
そういう話で盛り上がっていると、厨房からマーサとレパードが出てくる。話は終わったようだ。
マーサに聞くタイミングを測っていたはずなのだが、二人の表情も悪くなかったので、まぁいいかという気分になった。おかしなことに、気にならなかったのだ。




