その662 『返ってこないもの』
「とにかく暫くは様子見だな。できれば桜花園に渡りたいが……」
レパードが腕を組んで窓を睨んでいる。こうなってしまっては、安易に空には戻れない。すぐにレンドたちのもとへと向かえないのだ。間の悪さを呪うような目つきだった。
「今出て行けば、まず目立つだろうしね。いいよ、ここで様子を見ていよう」
気を取り直すようにラダに告げられて、イユは頷き返す。
「助かるわ」
イユのできることも限られてくる。そう自覚してから、リュイスたちへと視線をやる。彼らに休憩か必要なのは当然として、薄暗い祠の中にいたせいかうっすらと埃っぽいのである。
「祠にいたせいで酷い見た目よ。今のうちに浴びてきたら?」
二人揃って目を丸くする。こう同じ挙動をされてしまうと、まるで似ていないにも関わらず兄弟のように見えるから不思議である。
「何よ?」
「いえ、その……」
言いにくそうなリュイスに変わって、ワイズがはっきりと言う。
「あなたが見た目を気にする発言をしたのが意外でした」
確かに今までは見た目をあまり気にしていなかったなと、指摘されてぼんやりと思った。リーサがくれた衣類が汚れるのは気になったが、他者に指摘を入れたことはあまりなかったかもしれない。
「私だって構うようにもなるわよ」
ついでに自分自身も動けるようになってから身繕いをしていないことに気が付いた。意識のなかった間は刹那が顔や身体を拭いてくれていたようだが、気になるものは気になる。
「私も浴びてきたいわね。見張りが必要なのはいつ頃? 医務室を覗いたほうがいいかしら」
医務室は刹那とリーサ、マーサの三人に任せてある。食事の準備もしたいだろうから、そろそろ交代してほしい頃合いかもしれない。先に交代して後から休むのも手だ。
「医務室は後で人をやるから、ゆっくりしていていいぞ。この感じだと動けるようになるのも時間が掛かりそうだ」
イユの考えを読んだようにレパードに答えられ、大人しく頷く。
実際のところ、ゆっくりできる気はしなかった。雑木林に潜んでいるだけなのだ。ひょっとすると、外を歩いている人に見つかることもありうる。浴びている最中にそうなっては、どうしても準備に手間取ってしまう。
レパードはむしろ、早く湯浴みをすませてほしいのだろうと解釈する。風呂など五分もあれば十分だ。さっさと動いてしまうが吉である。
「分かったわ。先に湯浴みをしてくるから」
行きましょうと声を掛け、廊下に出る。途端に、ひんやりとした空気に乗って、何かしらの力を感じた。その正体がよく分からない。複数あるせいだろう。近づこうとして、歩き始める。少ししたところで、医務室からのものだと勘付いた。確かにリーサたち含め大勢いる。数が多ければ多いほど力は発生する。その分感じ取りやすくなっているだけだろう。
そう納得仕掛けたところで、力の数が少ないことに気がつく。しかも、扉の向こう側から声を拾ってしまった。
「謝られても、どうにもなんないよ」
それは、シェルの声だった。起きたのだなと考えていると、続けて刹那の答えが返った。
「どうにかしたい。どうすればいい?」
今ならわかる。シェルと刹那が向かい合って話しているのだと。この組み合わせがよくないことは直ぐに理解した。何よりシェルは刹那のせいで体の自由を奪われたようなものだ。加害者と被害者が顔を合わせて、それで発せられた会話の一部が先程までの言葉だ。刹那が謝罪したのだろうとわかるが、そんな言葉だけで全てを許せるとも思えなかった。「あなたの片目を奪ってごめんなさい」などと言われたら、イユなら間違いなく相手を殴っていることだろう。
だから、たまらず医務室へと駆け寄る。突然走り始めたイユを追って、リュイスとワイズの追いかける気配がある。
「どうしたんですか」
そんな声が聞こえたが、答える暇はなかった。すぐに医務室の扉に手を掛ける。
そこでイユの手は止まってしまった。続けて聞こえてきた言葉に、止まらざるをえなかったのだ。
「オレの目と身体を返して」
ぎゅっと、心臓を締め付けられる感じがした。シェルの言葉の重さに、改めてシェルが奪われたものを意識する。少しは元気になったと錯覚していた。イユたちと一緒に地図を辿って、セーレでもできることがあると知って、自信を持ってくれたのだと思い上がっていた。
けれど、シェルの言葉には深い悲しみとどうにもならないことへの怒りと絶望が込められていた。できないと知っていて、それでも叩きつけたい言葉なのだ。本当は、シェルの辛さの百分の一も分かっていなかった。
「イユ?」
追いついてきたのだろう、リュイスから戸惑った声が掛かる。ワイズは無理せず歩いて追いかけることにしたようで、まだ距離が空いている気配がある。
振り返って、二人に答えるだけの余裕はなかった。何故ならば、刹那たちの会話は続いている。
「私の目を渡せばいい?」
「良くない。そんなことされたって、式神はいつ消えるか分からないから、意味ないよ」
シェルは事情をある程度聞いたようだ。刹那が自分から、自分が消えるという不都合な話をしだしたとは思えない。リーサとマーサが話したのだろう。ただ、二人の気配は今は医務室にない。一旦食事の支度をしにでているのかもしれない。
「……私には難しい」
「オレだって、そうだよ……」
胸の痛い会話だ。刹那の罪の重さを改めて意識する。
「気になるなら入ったらどうですか?」
追いついてきたワイズに聞かれたが、首を横に振った。
「そんな気にはなれないわ」
それから、更に背後で歩いてきた人物に目を留める。
「マーサ」
マーサは両手に衣類を持っていた。単にシェルたちの着替えを取りに行っていたところだったらしい。
「リーサは?」
「先に食事の準備にいってもらっているわぁ。そのほうが良いかなって」
レヴァスの状態をみて青い顔をしていたリーサを、医務室から引き剥がすことにしたのだろう。マーサなりの配慮だと思われた。
「リーサちゃんなら、優しくて滋養に良いお料理が得意だし、病み上がりの皆にも振る舞ってくれるでしょう? イユちゃんも楽しみにしていてね」
頷きながら、イユは尋ねる。
「マーサ、シェルのことは」
なんと言えばよいかわからず、その先の言葉が紡げなかった。
「そうねぇ。皆で支えてあげないといけないわね」
マーサからの言葉に、大人しく頷く。イユがここで中に入っても、どうして良いかは分からない。
けれど、マーサならば上手く対応してくれそうにも感じた。
「任せてよいかしら?」
「えぇ、大丈夫よ。イユちゃんたちはお疲れでしょう? まずは休んでね」
マーサはニコリと笑うと、中の様子に臆することなく入っていく。一瞬開いた扉の先で、散らかったベッドが見えた。刹那の蒼い瞳が、大きく見開かれる。イユたちに気づいていなかったようだ。
「まぁまぁ、散らかしちゃったのね。それだけ動けるなら大丈夫そうね。でも、無茶は駄目よ。まだ起きたばかりなんですから」
マーサの言葉とともに扉は閉じる。イユの耳には、戸惑いの声を上げるシェルと、マーサの明るい声が聞こえてきた。
「行きましょう」
リュイスに声を掛けられて、イユは頷く。気になるが、任せると決めたのだ。
「えぇ、そうね」
それに、振り返った先のワイズの顔色はとてもよろしくない。イユが医務室によっては、休むべき人間が休まない。そう自分を納得させる。
後ろ髪を引かれながらも、休息をとるべくイユたちは階段を下りていった。




