その661 『目撃』
ひやりと背筋が冷える心地がした。その人物の名を聞いた瞬間に浮かんだのは、レンドの顔だ。大丈夫だろうかと不安になってしまう。
村一つ滅ぼすことを厭わない人物。それは、見方によっては鳥籠の森にいた主よりタチが悪い。主はまだ鳥籠の森から外にはいない。少しずつ範囲を広げながら鳥籠に入れる被害者を集めている。けれど、『魔術師』は違う。自分に都合がよいからといって、簡単に遠くにある村落を滅ぼす決断をする。同じ人間が同じ人間を、だ。まだ確実ではないとはいえ、そうした可能性が頭に浮かんでしまうだけでも、『魔術師』の恐ろしさを改めて実感してしまう。
ぞわりと肌が粟立つ感覚が消えない。そう考えて、気がついた。
「ちょっと待って」
前方だ。間違いない。そこにあり得ないはずの力がある。
「下がって! 危ないわ」
「どうしたんだ?」
不思議がられるのは百も承知だ。なにせ、前方の窓に映っているのは霜陰山脈ぐらいのものだ。遠くからでも、その山脈の聳え立つ様はよく見える。雪化粧した山は美しくも荘厳だ。イユの目であれば、飛行船の一隻がそこに浮かんでいるのも見える。恐らく巡回しているのだろう。シェパングの船だ。幸い遠いためタラサには気づいていないようである。
だが、恐ろしさを感じたのはあの船にではない。
「鳥籠の森の主より強いわ」
イユの言葉に操縦桿を握りしめていたラダが、目を細めた。ラダはすでに進路を変更しようとしていた。遅れて旋回するタラサの窓にそれが映る。
誰にともなくぽつりと呟いた。
「あれは、何だと思う?」
ラダの視線の先、窓の光景を全員が見た。
――――霜陰山脈に小さな黒い点が浮かんでいる。
窓に汚れでもついているのかと錯覚し掛けるが、黒々としたそれが突如として空に現れたものであることは間違いない。何より既に小型の船一隻分ぐらいの大きさになっているのだ。
「あれよ! 力の正体!」
ラダも危険に気がついたのだろう。速度を上げたことで、急な揺れにイユの体が耐えられずに傾いた。それでも視界の端、窓に映っていた黒い点が更に広がる瞬間を目撃する。
「確かカメラがありやしたね」
後方の様子を映したカメラがクロヒゲによって投影される。そこに映った黒い穴を見て息を呑んだ。
「これって」
レパードがイユの言葉を引き取り、重々しく告げる。
「間違いない、『深淵』だ」
ただの点だったそれはあっという間に穴に変わり、今では先程まであったはずの山の一部をくり抜いている。荘厳だったはずの霜陰山脈は、無惨にも大穴の開いた姿に変わり果ててしまっていた。先ほどまであったはずの飛行船も、当たり前のように存在しない。
イユは信じられない面持ちで、それらを凝視する。力が何を指すのか理解しても尚、起きた光景が信じられないでいる。
「ちょっと、何で。だってついさっきまで……」
ただの黒い点が現れただけだ。それだけで全てが崩れ去った。もし気づくのが遅ければ、消えてしまった飛行船と同じ末路を辿っていた。イユ以外に力の在り処などわかるはずがない。前触れがないという恐ろしさに、災いという言葉が浮かんだ。浮かんでいただけの飛行船が突如喰われるという悪夢を前に、拳が震えるのを止められない。
「これは少々不味いかもしれません」
青い顔をしたワイズが、難しそうに顔を顰めた。
イユはそれを『深淵』への恐ろしさについて言及しているものと取り違える。ところが、次のワイズの言葉は予想の斜め上からきた。
「タイミングが悪すぎます」
災いに時間など関係あるのだろうかと思ったところで、ラダが答える。
「戦争の口実に使われないか心配なのかい?」
「そのとおりです」
イユはうろうろと見やってしまった。
「それって、どういう」
「『深淵』はシェイレスタの兵器であるという噂が広がるということですよ。シェイレスタがシェパングを狙ったことになります」
聞いたことのない発想にぽかんとしてしまう。
「何言っているの。こんなの、人の手でどうにかなるものじゃ」
「暴発した異能で森が滅ぼせるのですよ?」
鳥籠の森のことを告げられて、言葉に詰まった。
「まぁ、実際シェイレスタにそんな兵器を作る余裕はありません。ですが、相手がどう考えるかは別というものです。特に市井の噂は煽りやすい」
何か恐ろしい話をされている。そんな風に遠くから受け止めることでしか頭を整理できなかった。
「さすがに考え過ぎやしないでやすかね。『深淵』の存在は以前から指摘されていたと聞いとりやすが」
「そうですね。全部僕の妄想かもしれません」
もし、これがワイズの妄想ならば、いっそそうであってほしい。災いへの対処方法を考えるのではなく、災いを戦争の火種にするという『魔術師』の発想に寒気がして仕方がない。彼らには、欲望のあまり大事なものを見落としているだろうと言いたくなる。
「悪いが呑気に話し合っている暇はなさそうだよ」
ラダの指摘に、レパードが呟いた。
「偵察船か」
直接乗り付けると危険とみて、恐らく明鏡園から手配したのだろう。進行方向に小さな粒が見えている。それにしてもやたら対応が早い。まるでいつでも出立できるようにしていたかのようだ。
「どのみち『深淵』の近くならばこいつらは狂うはずだ。誤魔化せる。それより近くで身を隠せる場所はないか。主艦が来たら厄介だ」
レパードの指示に、ラダは操縦桿を傾ける。
「あそこがよさそうだ。下りるとしよう」
ラダの示した場所は雑木林の中だった。すぐにタラサは着陸する。船体が木々にぶつかる音が響くが、背に腹は代えられない。
暫くすると、レパードの懸念通りシェパングの船が上空を通過していった。
「これは暫くは大混乱だな」
飛んでいくのはシェパングの船だけかと思ったらそうではない。ギルド船も幾つか飛んでいく。
「記者を乗せたギルド船でしょうか」
リュイスの問いかけにレパードが頷く。
「その類だろう」
『深淵』はあまり近づくと吸い込まれる。だから、船は遠目から事態を確認しているようだ。幸いにも急速に拡大した『深淵』はこれ以上大きくなる様子はない。確証はないが、他の『深淵』と同じように周りを、あくまでゆっくりと吸い込んでいくのだろう。
「結局、『深淵』って何なのかしら」
その答えはきっと、誰も持っていない。




