その660 『噂との乖離』
「大勢で囲っていても邪魔になるだけだ。一旦ここは刹那、リーサ、マーサに任せていいか」
一通り落ち着いてから、レパードは周囲を見回して告げた。
「とにかく今はリュイスとワイズに現状を伝えたい。航海室に行くぞ」
そう言われてから、ようやく実感した。これでリュイスたちも無事タラサと合流できたのである。離れていたのが数日とはいえ、こうして無事に同じ飛行船に乗れることが嬉しかった。
「ところで、お前は動けそうなのか? 航海室に行くにも辛いようなら後日にするが」
レパードの問いに、ワイズがきっぱりと断る。
「情報共有ぐらいはしておくべきでしょう。僕ならまだ大丈夫です。いらぬ心配は自分の頭の弱さにでも使ってください」
その返しに、大丈夫そうだと判断したレパードがやれやれという仕草をする。同感だった。
航海室にはラダとクロヒゲもいた。目的地に向かうために必要な二人だ。航海室を選んだのは、これからの話がしやすいという面もあったのだろう。
「よくお帰りになりやした。そちらの方は初めてでやすな。副船長をやらせてもらっておりやすクロヒゲといいやす」
クロヒゲは一瞬想像より小さい子供が来たことで驚いた顔をしたが、ワイズには普通に応対する。予めワイズのことは話してあったから、知らない子供が来たという反応ではない。
しかしながら、『魔術師』に警戒する様子も見せなかった。それを見、イユのときもそうだったと思いだす。クロヒゲは『異能者』だろうが『魔術師』だろうが、態度を崩さない。ラダもだ。彼らは思ったことをそのまま口にはしないのだ。
「どうも、ワイズです。聞いているでしょうが、ブライト・アイリオールが僕の姉です」
相変わらずワイズの態度もいつもと変わらないので、溜め息が出そうになった。「姉が世話をしたようで」などと言われたら、嫌でもブライトの顔を重ねて見てしまうものだろう。
「とりあえず、だ。この場で手早く情報共有をする」
そうして始まったレパードの話を聞きながら、イユは現状を振り返る。ひとまずリュイスたちと合流できたので、残りはレンドと合流が本筋のはすだ。
だが、細かい動きは確かにイユも知らない。
「桜花園に戻るのよね?」
話が終わったところで今後について確認すると、レパードは頷いた。
「あぁ、そうだ。ラダたちが、明鏡園から情報を仕入れてくれていてな」
ラダたちが入り込んだという明鏡園。イユは遠目に見ることしかなかったそこへ、しっかり情報収集をしてきたという。
「ただ、克望の情報より世間の情報のほうが入りやすくてね」
操縦桿を握りながら、ラダが説明する。
「どうも思っていた以上に、雲行きが怪しいようだよ」
「雲行き?」
話の流れこそ、何かがおかしい。てっきり霜陰山脈に渡る手筈を確認するのかと思ったが、そもそも桜花園に戻る話でもなさそうだ。ラダたちの話が読めないのはイユだけではないようで、ワイズが苛々したように尋ねる。
「何があったんです?」
ぽつりとラダが呟く。
「イグオールの遊牧民」
全く不意打ちの言葉だった。
「覚えているかい?」と続けられて、イユは頷く。
「ラクダのミルクを飲んだところよね」
シェイレスタの砂漠の民の遊牧民。ラピーシアと呼ばれていたラクダに乗った少女、チェチカの顔が浮かんだ。
「あなたは食べ物ばかりですね。あの遊牧民がどうかしたのですか」
呆れ口調のワイズのことは放っておく。イユも続きが気になったのだ。
「シェイレスタに反旗を翻したとの話が出ている」
意外な言葉に、ぴんとこなかった。あそこにいた遊牧民の顔が順番に浮かぶ。
「暴動を起こして、シェイレスタが対応に急いでいると」
「ありえないです」
リュイスがすかさず告げる。イユもそう思う。確かに歴史的にはイグオールの遊牧民はシェイレスタに虐げられてきた。けれど、あそこにいた人たちは、試すようなワイズを見ても酷い態度はとらなかった。
「理由はマドンナの死がきっかけと言われている。シェイレスタがマドンナ暗殺を企てたが、認めない。我々の歴史と一緒だと」
既にラダとは情報を共有済みだったらしく補足説明をするレパード。
しかし、その説明を聞いて、イユは余計にわからなくなった。マドンナの死がきっかけで、歴史問題を思い出したとでも言うのだろうか。どうしても、あの人たちの顔と今の噂が結びつかない。
「噂でしょう? 嘘が混じっているのよ」
イユの言葉に頷いたのはワイズだ。
「でしょうね」
イユはワイズに認められたことでその話は終わった気がした。ラダはおかしな噂を聞きつけた。イグオールの遊牧民がシェイレスタに反旗を翻したという。けれど、それは全くの誤報だ。
「しかしどこまでが嘘でしょうか」
だから、そう続けたワイズの言葉に目が点になる。
「え?」
「今は、シェイレスタが対応に急いでいるとされているのでしょう? その後のイグオールはどうなったのですか」
ワイズの言いたいことが見えてこない。
「そこまでは出回っていなかったね」
「けれどあなたたちは予想していますね。だから、この話をした」
そのとおりだとラダは頷く。イユにはまだ話が分からない。
「待って、何の話?」
「イグオールに何か起きるという話ですよ。戦争の火種にされるような、ね」
ワイズに言い切られて、一瞬言葉を失う。あまりに突拍子もない発想だ。答えを言われてもやはりまだ、何を言われているのかよく分からない。
「彼らは遊牧民。規模はそれほど多くない。消される可能性もあります」
さらりと言われた言葉には思いの寄らない重さがある。そのせいで、くらくらと目眩がする。
「待ってください。それは、戦争を起こすために一つの村を滅ぼすということですか」
聞き捨てならないと、リュイスが口を挟む。
「そんな横暴が……」
「ないと言えますか? あなたたちのいた故郷は現に滅ぼされたのに」
リュイスも口をつぐんだ。ないとは言えないと気づいてしまったのだ。カルタータの滅亡には『魔術師』が関わっている。それならばカルタータよりずっと小さな村落など、『魔術師』は簡単に滅ぼせてしまえる。
「そんなことして、何になるのよ」
辛うじて追いついた理解に、しかし動機を武器にして手放したくなる。自分の都合だけで村落を滅ぼすとは、食べ物を追い求めてやってきた魔物よりたちが悪い。理解できてしまったら彼らと同じになりそうだ。イユはそこまで堕ちたくはない。
「既に戦っている仲間がいて、そいつらがやられたなら黙っていられないというわけだ」
レパードに告げられた言葉が、頭の中でころころと転がる。口の中で溶ける飴のように、言葉は液体となってイユの理性に働きかける。
村落が本当に滅びてしまえば、噂を嘘だと証明する者はいない。死者は何も語ることができないのだ。だから、嘘八百のこの滅茶苦茶なレパードの言葉が現実になりえてしまう。
――――そんなことが起こるのだろうか。
自問して、今までのことを振り返る。他でもない、『異能者』が施設に入れられた最期を普通の人たちは知っているだろうかと思考する。
きっと、友人や仲間が悲惨な死を遂げていたら、幾ら『魔術師』の指示とはいえ、皆黙ってはいないだろう。それは秘匿されているから、許されているのだ。
おそらくは、今回も同じことである。『魔術師』の好きなように村落が滅ぼされても、その事実は秘匿され、彼らの好みの噂に書き換えられる。事実などまるでなかったことのようにだ。
簡単に覆る事実という絶対的な存在に、空から突き落とされた心地がした。
あるいは事実とは、元々知らなかっただけで揺るぎやすいものなのかもしれないと感じる。事実ほど確実なものはないようにみえて、簡単に書き換えてしまえる。少なくともそうできるだけの力があるものが、この世界には在る。
「けれど、一体誰が」
ここまでの恐ろしいことを思いつけると言うのだろう。そう続けようとして言葉にならなかった。口がすっかり乾いてしまったのだ。
「普通に考えたらシェイレスタではないですね。攻められる側が攻められる口実を与えるのはおかしいですから」
言い訳でも何でもなく、ワイズは淡々と事実を述べている。そして何よりも、噂が出ているのは明鏡園だ。それはイユにも分かる。
「何、シェパングということ?」
イユの疑問に答えたのは、それまで聞いていたクロヒゲだった。
「そうでやすね。まだ物事が動いていない以上早計だと思いやすが、その可能性はありやすかと」
克望が武器を買い集めていたのを思い出した。あれは、そういう意味だったのかと考える。戦争が止められないと聞いていても、イユにはまだ余所事だった。セーレのことで頭がいっぱいだったのだ。
けれど、出会ってしまった誰かが被害に遭う可能性を知って、いよいよ他人事にはできなくなった。
「ひょっとしなくても、そういうことをする可能性が高いのって」
「えぇ。抗輝でしょうね」
そうして今回の首謀者かもしれない人物の名を、あくまであっさりとワイズが告げるのであった。




