その656 『空へ(終)』
「脅すのはそれぐらいにしろよ」
刹那の背後にあった扉から入ってきたのは、レパードだった。
「本当のこと」
「だとしても、だ」
二人の会話の内容がイユには上手く読み取れない。刹那にからかわれていたように受け取れるが、鳥籠の森を発っていないという話が嘘にも思えなかった。
レパードから話の続きを聞きたかったのだが、
「思ったよりは元気そうだな」
と呟かれるに留まる。戸惑いを払拭したく、すぐに尋ねた。
「それより現状よ。今は危険な森にいるの?」
「結論から言うとそうだ。だが、あれから丸二日間経っている。それでも何も起こっていない。それが現状だ」
意外な日数に目を瞬く。
「私、そんなに寝ていたの?」
骨折ぐらいなら数日間で治せる自信がある。それが、大きな外傷もなかったにも関わらず二日間も寝込むとは正直、驚きだった。
「どうやら主に力を奪われた人間は数日間は寝込むものとみていいようだな。クルトたちが寝たままなのも納得だ」
改めてぞわりとする。イユでさえ、二日間も経っていた。倒れていたというクルトたちは、小さいとはいえ主にどれほどの力を奪われたことだろう。シェルなんて元々怪我人なのだ。奪われるのは生気だけではない。持ち直したばかりの気力を奪われて、大丈夫なのだろうかと心配になる。
そして、同じようにラダやセンも心配だ。特にラダは起きてくれないと飛行船を飛ばせない。リュイスたちを迎えにもいけないのだ。
「とりあえずタラサ内の安全は確認したが、何があるともしれない。だからマーサやリーサ、レッサには団体行動を言い渡してある。マーサとリーサはタラサがはじめてだからな。レッサが設備の案内をして回っている」
リーサたちの現状を聞かせられて、ほっとする。レパードはイユが聞きたいことをよく把握している。
「あれから目を覚ましたのはクロヒゲだ。もう動けるらしくてな、とりあえずミスタとアグノスと一緒に機関部と航海室をみてもらっている。なにせ新しい設備が多いから、特に機関部員は覚えることが多い。ライムはマニュアルを作るタイプじゃないしな」
眠っている機関部員に話が聞けないから、捗らないということらしい。ただクロヒゲは航海室で副船長をしていたセーレでの印象がある。習得できたら、一人しかいなかった航海士のラダの負担は一気に減るはずだと感じた。
「食糧と水は今のところタラサ内だけで充てがっていられている。明鏡園でもかなり蓄えてきたみたいだから、そのあたりは心配ない。刹那と二人で外に見回りにいった限りでは、周囲にいた魔物もすっかり大人しくなっている。霧は変わらずあるが、『霧すがた』はまだ見かけていないな」
主の影響が薄れたことで、魔物にも何かあったのだろうか。良いことだが、不思議でもある。
「いつの間にか、新しい飛行船になっていて驚いた」
主がいたせいでタラサの大きさに驚く暇のなかった刹那が、今更ながらそう告げる。
「ヴァーナーたちの状態は? 担架で運んできたのは想像できるけれど」
レッサとリーサがついていないのだ。だから大丈夫だろうとは思っている。
「一応刹那が処置をした。分からんが落ち着いてはいる」
ここにレヴァスがいれば医師の見立てがあったことだろうが、お手伝いで止まっていた刹那には荷が重いらしい。やれることはやって、とりあえず効いてはいるようなので恐らく大丈夫だろうという状態のようだ。
そこまで聞いたイユは、ほうっと息をついた。完全に安心できたわけではない。まだ鳥籠の森にいるし、リュイスたちを迎えに行ってもいない。
けれども、今このときは、皆生きている。それが何よりも有り難い。
「納得したか?」
問われて、イユは頷いた。
「えぇ、お陰様で」
「だったらもう少し寝ていろ。顔色がまだ悪い」
レパードの気遣いに大人しく頷く。刹那にもまた告げられる。
「リーサには、イユが起きたこと、伝えておく」
胸をなでおろすとともに、瞼の重さを感じて枕に頭を下ろす。
――――今このときだけは、取り戻した幸せを噛み締めたかった。
次に目を覚めたときは、人の気配があった。話し声に目を開ける。
「すまない。起こしたかい?」
ラダの声にはっとした。起き上がると、隣で寝ていたはずのラダが身体を起こしているのがみえる。
「ラダ。目を覚ましたのね」
「寝ていたのは君の方だよ?」
笑われてしまう。けれども、周囲にはレパード、刹那、クロヒゲにミスタと勢揃いなあたり、ラダも起きたばかりに違いない。
指摘すると、
「違いないね」
と認めて、再び笑われる。力のない笑みだが、笑う余裕があるのだ。怪我の割に意外と元気そうだ。
「イユのお嬢ちゃんも、ご無沙汰していやす。倒れていたところを助けていただいたとか」
クロヒゲに挨拶されて、イユはおずおずと返す。
「見つけたのはレパードだけど」
「俺はただ何かあると思っただけだ」
その指摘がなければ、イユは目を凝らそうともしなかった。そう思うのだが、先にクロヒゲに笑われてしまった。
「細かいことはなしでお願いしやす。とりあえず、礼は言わせて下せぇ」
「分かったわ。受け取っておく」
どちらにせよ、こうして普通に歩いていられるぐらいに回復してくれたのが有り難い。見つけたときの有様からは信じられないほど、しゃんと立っているのである。
「にしても、よもや最初に突撃しに行ったと聞いて、本当驚いたぜ」
ラダにはタメ口のクロヒゲが、そう責める口調で言う。心配が伝わるが、イユからみたら一人で鳥籠を脱して動こうとしたクロヒゲもどっこいどっこいだ。
「すまない。どうしても譲れなくてね」
ラダがそう答えたとき、扉が開いた。
「ラダさん! イユも、起きたのね!」
中からリーサとマーサ、レッサがやってくる。リーサの顔が思いの外元気そうでイユはほっとした。無事にいてくれたことに改めて感謝したくなる。
「……ご無事で何よりでした」
ラダがマーサを認めて目を見張り、そっと顔を伏せる。イユには意外だった。ラダがマーサに敬語を使う印象がなかったからだ。
「私はおかげさまで。ラダさんこそ良かったわぁ」
マーサはいつもどおり朗らかに笑う。ここまで大変な経験があったはずだが、その笑みはちっとも変わっていない。
「セーレは守れませんでしたが……」
悔しそうなラダに、柔らかく答える。
「構いませんよ。それを言ったら、私はあの人の子供を産んであげられなかった」
初めて聞いた重要そうな言葉に、イユは口を閉じた。
「マーサ……」
レパードもまた辛そうに目を閉じる。何か、イユの知らない過去が掘り起こされている。それに分け入ってはいけない気がした。
「でもね。私、無理にあの人の守ろうとしたものに縋る必要はないと思うの。あの人が望んでいたのは、皆が過去を振り返ることではなくて、あの人の大好きな世界を見て楽しむことだと考えるから」
前向きなマーサの発言に、はじめて強かさを感じる。何故だろう、イユは今まで気づかないでいた。マーサのことを頭にお花畑でも咲いている人のように思っていた。けれどよく考えれば、そんなはずがないのだ。マーサもまた十二年前カルタータにいた人物だ。失うことの辛さをよく知っている。
「マーサさん……」
しかし、マーサは明るい。その明るさが強さだとはじめて知った。
「だからラダさんも、気にしては駄目よ? くよくよするのはあの人、嫌いだったでしょう?」
「はい……」
ラダが乗り越えられないでいるそこに易易と踏み込んで、声を掛けている。そのように感じたから、皆は何も言わないでいるのだと思った。ラダが何か抱えていることは付き合いの短いイユにも分かっている。周囲の仲間がそれを知らないはずがない。そして、その長年のわだかまりがきっと今溶けたのだとそう感じられたのだ。
「ですが、だからこそ、助けられて良かった……」
「えぇ。生きていられて良かったわぁ。これからもっと、人生を楽しみましょうね」
シーツをぎゅっと握って顔を伏せるラダの姿は、きっと泣き顔を見られないように必死だった。
「本当にもう動いて平気なのか?」
そう問われるのはイユの役目だと思っていたが、今回は違う。現状を一通り聞いたラダが早速航海室に向かうと言い出したからだ。
「一度飛ばしてしまえばある程度は自動で飛ぶようになっているから、飛んだほうが良いだろう」
体調については答えず、事実と懸念だけは伝えるラダに、反論はできない。
「いつ主が復活して襲ってくるともしれない。それに、リュイスたちも迎えに行かないと心配だ」
「相変わらず、イユ以上の無謀者だ」
とレパードが苦い顔をするので、イユとしては複雑だ。
だが、ラダの言うことには一理ある。誰も言い返せず、飛行船タラサは再び飛ぶことになったのだ。
ベッドに横になりながらも、イユは飛行船が浮く感覚を味わっていた。ラダのことは心配だが、それだけではない。まだ道中。これだけいろいろなことが起こり抗った結果、多くの犠牲がありつつもまだ途中なのだと意識する。レンドたちのこともまた気掛かりで、怪我のひどいミンドールのことも心配だ。
けれど、今はじっとしているしかない。目を閉じてもふらふらと浮かんでいる力。幾つかは消えそうなそれらがまだあるという事実を噛み締めながら、イユは目を閉じて、深い眠りに落ちていった。




