その652 『力を合わせて』
意識したその瞬間、視えていた力がより鮮明になった。だから、どうしたらよいか分かったのだ。
不安定な力が、森中に漂っている。たとえるなら、水の中に一滴、墨を垂らしたかのような感覚だ。墨は中々他の水には混じらない。ぐちゃぐちゃとかき混ぜられて不完全に澱んだ水が、今鳥籠の森を覆っている。気持ち悪さを感じた。今まで全く気付かずにいたのが信じられない。
どうしたらよいかは、考えなくても分かった。イユが働きかけさえすればそれは思い通りに動くのだ。聴力を高めるときや足を速くするときと何も変わらない。ただ、範囲が広いだけだ。本来ならば自分のすぐ手元にあるはずのものが、何故か薄く限りなく広がるように延ばされて漂っている。だから、まずは掻き集めることが先だった。
「何だ、急に手が増えて……、いや、隠れていたやつが現れたのか」
意識を集中させていただろうレパードの、驚きの呟きが耳に入る。
現れた手は、普通の手の形をしていないものが殆だった。爪ばかりがやたらと長いもの、小さくて細い指を這いずるようにして進むもの、逆に他の手より二回りは大きいもの。影は光の強さでその存在感を変える。逆に言えば、見えないほどの薄い影は光の強さを大きく受けていない。だからか、本来の手の形をとれずに、どこか歪なものが多いのだ。
それが、一定の力を受けて姿をみせる。掻き集めたことで斑だった力が一つに集まったということだろう。
「動きが、早くなった」
逆に手の動きが活発になる。薄く伸ばしたものが一つに集まって凝縮された結果、活性化したのだろう。刹那の呟きが、耳に入った。
「でも、ちょうどよい」
刹那もまた、見えない力が見えるようになる恩恵に喜んだようだ。これで、取りこぼしはなくなる。不意打ちも打たれにくくなる。
魔法石の光が弾け、手がタラサから引き剥がされていく。順に投げつけたそれが、タラサを爆風に巻き込んでいく。そのなかを刹那が走る。つい先程までふらついていたとは思えない動きでまずは船尾にいた手へと一閃する。
刹那の一閃になすすべもなく消えていく手。それが消える前に別の手へと飛びかかる。
二体、三体。タラサからはがれ落ち、森に溶けていく。
勿論、主も黙ってみてはいない。刹那に襲いかかっていく。
前方を塞ぐようにやってきた手を避けた刹那は、今度はひょいと飛んで横からぶつかってきた手を跨ぐ。そうして、タラサの船上を駆けるように進んでいく。
一体、二体、三体。背中を狙ってぶつかってきたそれらを避け続け、船の端から端まで走り抜く。気づいたときには刹那に飛びかかろうとする手の数が数え切れないほどになった。
集めきったと判断したのか、刹那が船首から飛び降りる。そこを狙って主が飛び掛かった。落下を狙うあたりに、主の意地の悪さを感じる。
雷の魔法が光り、手がおちていく。着地地点にいた手には、刹那が魔法石を投げつける。ばらばらに飛び散った手を踏みつけて、すぐさま飛び退る。今々刹那がいた場所に滝でも落ちたかのように手が殺到する。走る刹那を追いかけて、その滝は向きを変えて駆け込んでいく。
空気が揺れた。それが音を伴っている。まるで狼のような遠吠えに近い音だ。耳を塞ぎたくなるような、悲しみを体現するかのような音が、集っている。イユたちがはじめに主の存在を疑ったときに聞いた音。それは正確には鳴き声ではなく、影が集い切ったときに発生する移動の音だったのだ。
さざなみのように揺れる森、そして圧倒的すぎる数。それらを前に、イユは息を呑むしかない。けれど、刹那の誘導は確実に行われている。問題はイユの周囲にもいる手の存在だ。
レパードも分かっていたのだろう。叫んだ。
「刹那!」
真っ先にイユたちへと駆け込んでくる刹那。たしかにこれでイユの周囲の手を巻き込むことに成功することにはなるが、イユたちが雷の魔法の中に入ってしまうのもまた問題だ。焦ったイユの目の前で、光が弾けた。
今までにない大きな雷鳴だった。視力が一瞬奪われる。
周囲の手が崩れたそこに、刹那が駆け込む気配があった。すれ違うその瞬間、言葉が交わされる。
「集中する。俺の援護はない」
こくんと頷く刹那が見えた気がした。
イユたちの周囲を雷の膜のような光が覆う。刹那だけがそこから逃れて、走っていく。
後から追ってきた手が、光を避けて刹那へと突っ込んでいく。雷の厄介な敵より煩わしい刹那から捕らえる算段だろう。通り抜けていくだけでも圧倒的な力と速度を感じて、イユの腰はぬけそうになった。
一通り通り過ぎた先で、イユは刹那を振り返る。木々へと突っ込んだ刹那が、走りながら枝から枝へと飛び移って手の猛攻をかわしている。後ろに目でもついているかと思う動きだ。
そうして、刹那はとうとう木々の間を抜ききり、開けた場所に出た。
イユは気づく。刹那を追いかける主の手以外に周囲の手は存在しない。刹那と主の手はまだ距離があり、主が取りこぼす心配もない場所。それはまさに、今しかない。
「ここよ!」
叫んだイユの合図に応えるように、レパードの魔法が展開された。それは、光の膜だ。先程イユたちを包んだものとはまた違う。あまりに広大な範囲を取り囲む紫電の膜である。触れたものは全てその場で感電するとわかる、バチバチと光る火花がそこにある。
「イユちゃん!」
マーサの警告の声に意識が引き戻される。視界の先、レパードに向かって飛びかかろうとする手があった。
取り残した。否、主の手は狡猾だ。一体だけ、レパードの近くに潜ませていた。そして、今まさに魔法の制御でそれどころでないレパードを狙って飛びかかろうとしている。
イユたちと同様、主も狙っていたのだ。
レパードが銃を引き抜こうとして、しかし意識を乱せず手を泳がせている。それを見つけたイユは前のめりにレパードへと飛び込んだ。
「撃つのは私がやるわ!」
レパードの銃を触ったのは二回目だ。引き金の引かれる感覚は覚えている。そして、魔弾だ。レパードの力だろう、微かなぬくもりが銃に伝わる。これを放てはよいのだ。
イユは持てる力を引き上げた。脚力を上げたり、聴力を高めるのと変わらない。ただ、銃の中にあるレパードの僅かばかりの力に、干渉する。
引き金が引かれ、そこから力が発射される。手に向かって真っ直ぐに飛んでいった。
撃てたのだと実感するのも束の間、手は倒れなかった。ただその場で痙攣しているだけだ。最後の後押しがないと、分裂してしまう。
危機感に再び銃を撃とうとして、気がついた。発射できたはずの力がない。撃ち放ってしまったから、残っていないのだ。
これでは、手が分裂してしまう。刹那が、主を閉じ込めた光の膜へとこれでもかと魔法石を投げつけているが、それも意味がなくなってしまう。
絶望が滲みかけたそのとき、横薙ぎに熱が飛んでいった。
「え?」
誰しもが、反応できなかった。主の手が燃え、灰のように溶け落ちるのを眺めていても、まだ何も実感が湧かなかった。ぼんやりとするイユの耳に、生き物の鳴き声が聞こえてくる。
同時にきらりと光ったものがある。目を凝らしていたから見えた。ナイフだ。燃えた手にナイフが突き刺さって、手が絶命する。それを見たイユは、振り返った。
「アグノス?」
いつの間に、いたのだろう。自慢気に鼻を鳴らす飛竜は、相変わらず生意気だがこのときばかりは助かった。
安堵するイユの横を何者かが通り過ぎる。一瞬見えた金髪に目を疑った。
「刹那! これを使って!」
光の膜に魔法石を投げつける刹那に、袋が渡される。
「ありったけの魔法石!」
必要最低限の、しかし最も重要な言葉。それを放ったのは、アグノスとともにイユたちの元に駆け込んできたレッサだ。
「レッサ、どうして」
イユの驚きは爆音に掻き消えた。すかさず受け取った刹那が、魔法石を投げつけたのだ。それが、主へと全てぶつかり、大爆発を引き起こす。
真っ白な世界に音と色が支配される。何が何だか分からなくなった。




