その645 『決意を刃にのせて』
思わず駆け付けようとした。立ち上がって、数歩。そこで足が止まる。触れるだけで生気を奪う魔物を相手にして、どうにかできるはずがないと考えが及んだのだ。足が震えているのを感じ、不安を振り払おうとする。気をしっかり持てといったレパードの言葉を思い出すと、いつの間にか息を止めていたことに気が付いた。
落ち着けと自分自身に呼びかける。縮こまった思考に解れるよう訴える。確かに、今イユが飛び出ていっても返り討ちに遭うだけだ。少なくとも素手では無理である。何か投げるものがないか見回すと、視界の先で、主の手がちらついた。イユに向かってきている。
考える暇はなかった。続けて襲い掛かってくる主を相手に、避けて、躱してを繰り返していく。決定打を見つける余裕は到底生まれない。一瞬でも当たらないようにと気を配りながらでは、落ちているものを満足に確認もできない。そのうちに、不安と焦りが膨れ上がっていく。
「レパード! 平気なら返事をして!」
何回も喉が枯れるほどに叫んでいるのに、返事がない。せめて一言でも反応があればよかった。不安に押し潰されそうだ。
再び身体がふきとばされて、イユの腕に切り傷が走る。今までと全く同じだ。何の前触れもないせいで抵抗ができなかった。痛みにうめき声を上げてから、慌てて痛覚を鈍らせるので精一杯だ。一撃を受けたせいか、既に身体が鉛のように重い。一歩ずつ這いずるように進んで、レパードのいるだろう先を確認する。
次から次へと積み重なっていく手は、誰かに伸し掛かろうとしていることがよく分かる動きだった。あれだけの重さが加わったら、鳥籠に入る前に潰れている。森の主はレパードを鳥籠に入れる気はないのかもしれない。絶望に視界が霞む。
レパードもそうだが、マーサはどこだろう。イユが叫んでいるのだから、マーサなら何か反応してくれてもおかしくはない。
「レパードさんは無事よ、心配しないで」
みたいな声が聞こえてこない。マーサも無事でないのかもしれない。
地面が離れていく感覚を味わいながら、絶望のあまりに息苦しさを感じて息を吐く。掠れた声が溢れた。
「イヤ……、死なないで」
それは、イユの心の声。誰からの返事を求めたわけでもない、イユの祈りであり願いの声だ。
「うん。死なせない」
だから、イユの言葉に重ねられた言葉があったことに驚きを感じたのだ。
はっとしたイユの視界に飛び込んできたのは、重なり合った主の手だ。レパードを覆い尽くしたと思われたそれに、一筋の光が差す。
次の瞬間、主の指が跳んだ。宙を描いて、イユのすぐ近くに落ちる。そのときの砂が思ったより高く飛んでイユの頭に掛かった。
続けて、主の手が斬られていく。まるでバターでも切っているかのような軽やかな動きで、輪切りにされた指が飛び散る。
そこから飛び出てきた白い存在に、思わず声を張り上げた。
「刹那!」
叫んだ瞬間、世界が鮮明になった。今頃になって、イユは自分の体が指に捕らえられていることに気づく。恐らく森の主は気力から奪いに来たのだろう。感覚を鈍らせていたのもあって、捕まっていることさえ認識がなかった。
「無理に来て正解だった」
淡々と返す間も、刹那の動きは著しい。イユのすぐ横を駆け抜けたと思うと、ナイフで一閃していく。
イユの体が自由になり、地面へと落ちる。どうにか受け身をとって、姿を探そうと振り仰ぐ。
刹那は続けてやってきた主の手へ斬りつけているところだった。ただ斬っているだけではなく、時折魔法石を放っている。
刹那の力で斬りつけたぐらいではびくともしなくとも、魔法石の合わせ技であれば話は別らしい。必要最低限の爆発とともに主の指が次から次へと散っていくのだ。圧倒的な破壊力だった。
「刹那? なんで、リーサたちは」
イユの問いかけが聞こえたのだろう。刹那から返事がある。殆ど小声だったが、イユの耳であればはっきりと聞こえた。
「命の妙薬を持っていたから預けた」
「は?」
命の妙薬の数が足りないから、刹那が残っていたはずだ。そう言い返そうとして、違うことに気がつく。
命の妙薬は、外からもたらされたのだ。
「レッサとミスタ。二人なら担架も作れる」
二人が船を下りて行動していたと知って、泣きたくなる。少なくとも二人は無事で、動いてくれていたのだ。
刹那の動きを援護するように、雷鳴が轟く。振り返ったイユはそこで膝を折りつつも魔法を放つレパードの姿を見つける。
無事を確認して、イユの膝こそ折れそうになった。全く、心配かけ過ぎなのだ。
「元はといえば、こんなことになったのは私のせい。鳥籠の森に連れて行かなければ、主とも出会わなかった」
刹那は珍しく饒舌に、力を奮いながら己の内を晒す。
森の主はさすがにやられてばかりではなかった。触れることで生気を奪うことができない相手に、はじめこそ驚いたようだったが、大人しくやられるほど生易しくはない。
すぐさま、周囲の手は刹那に向かった。生気は奪えなくとも、その指に力を込めれば鬱陶しい羽虫は潰せることをよく理解している動きだった。
あっという間に刹那の周りに十もの手が襲い掛かる。さすがの刹那でも逃げ場はない。
「刹那!」
イユはそれを見て思わず警告の声を上げる。刹那の姿が、はっきりと手に隠されていくその瞬間を、目で追うことになった。
「だから、主は私の手で片を付ける」
凛と放たれた言葉とともに、一筋の光が見えた気がした。同時に、刹那を取り囲んだはずの指が一本残らず飛び散った。
その隙間から、蒼色の瞳が垣間見える。そこに宿った眩いばかりの意思に、イユは息を呑んだ。




