その644 『気力さえも奪う力』
空気が震える感触がしたとき、イユは反応できなかった。
目の前のセンに主の指が掛かったことを確認したときも、声を挙げるばかりでセンを主から引きはがすことができなかった。
あっという間に、センの身体が主の手に捕えられ、イユから引き離されていく。センは、先ほどまで話していたのが嘘のように、気を失っている。その顔色が真っ青だから心配で仕方がなかった。この状態で、生きる気力も体力も感情さえ奪われたらどうなってしまうのか考えるだけでぞっとした。
追いかけようとして、別方面からやってくる手の気配に気づかされる。主は貪欲だった。癇癪を起した後は、センだけでなくイユも鳥籠に入れて飾っておきたいらしい。
渋々身をかわして手から避けたときには、センはイユからはだいぶ離れてしまっていた。追いかけなくてはならなかった。追いついて、早く引き戻さなくては、センは助からないかもしれなかった。
それなのに、イユの身体はまだ避けるのに精一杯で満足に動けない。距離はどんどん開いていくばかりだ。
「イユちゃん!」
後方からマーサの声が掛かる。センと同じく目を覚ましたのだろう。ひやりとした。これ以上、仲間を奪われたくはない。
「来てはダメ!」
警告の声に、マーサの息を呑む音がする。強い口調に驚いたことだろうが、思いやっている余裕はない。
「触れただけで生気を吸われるわ。危険よ」
「風の魔法も使うって、レパードさんが」
レパードの発言は聞き漏らしていた。礼を言いながらも、内心ぞっとする。まさしく主に相応しい危険な存在だ。触れても駄目なら、遠くにいても風の魔法で襲われる可能性があるときた。
主の手が、続けざまにイユに飛びかかってくる。頭を伏せて一体をやり過ごし、上から落ちてきた一体を走って避ける。身体が動くのが我ながら不思議だった。仲間を前にして気が張っているのだろう。
そう自覚したとき、不意に身体が宙に浮いた。意識が一気に持っていかれそうになる。
気付いたときには身体は再び地面にあった。口から吐かれた息とともに赤いものが飛び散る。口の中を切ったせいだ。
どうにか身体を起こそうとしたところで、自分のいる場所が陰っていることに気付いた。
逃げなくてはならなかった。分かっていたのに、身体が動かない。再び押し寄せる疲労感に、押し潰されている。
このままではまた捕まってしまう。センを助けるどころではない。
そう思うのに、駄目だった。異能は使うにも意思がいた。その意思さえも奪う主の力を前にして、イユにはいつもの無茶ができないのだ。
手がイユに再び覆い被さろうとする。
間に合わないと思ったとき、雷鳴が轟いた。雷に撃たれた主の手が、痙攣する。それを見届けたイユは不思議と身体が動くようになったのに気付き、慌てて前へ飛ぶ。
手が地面に落ちたのは直後のことだ。砂こそ被ったが、五体満足であることを確認する。
「マーサはこっちだ。ラダをみててくれ」
レパードに無駄口を叩く余裕はないのだろう。マーサに指示を出す声を聞く。自分に飛びかかってくる手をいなしながらラダを庇い、イユを魔法で助け、指示も出しているのだと思うと、自分との違いに愕然とする。
イユへの指示も、続けて与えられる。
「イユはどうにか時間を稼いでくれ!」
レパードの助言に、イユはすぐさま返す。
「無理よ!」
自分の身体の限界をはじめて強く意識したのだ。いつもできた無茶ができないどころではない。前に飛んだだけで、起き上がることもままならない。
手の攻撃を避けるだけならまだ良かった。レパードの分も引きつけるとなると、イユには力不足だ。何せ今いるだけで主の手は五十はくだらない。更にその奥ではタラサに巻き付く手もある。
泣きたくなった。負けん気も起きなかった。こんなところまできて、イユは今全てを失おうとしている。イユは別に、森の主に鳥籠に入れられて飼われるために生きてきたわけではないのだ。そう言ってやりたいが、声を張る元気も沸かない。
「気を強く持て」
レパードの声とともに、手が飛びかかってくる気配を感じ、いつの間にか下げていた顔を上げる。
向かってくる手の奥、捕まっているセンがいる。鳥籠に入れられるところだった。
ぐっと奥歯を噛みしめる。センが笑顔でいろと言った言葉が今になって頭に入ってくる。
思い出した言葉に、首肯した。笑顔は難しいが、確かに今ここで泣きそうになっている場合ではない。
飛びかかってきた手に向かって、全身を倒し前に飛び込む形で避けきる。続けて迫ってきた手を跳んで避けた。次から次へとやってくる手を、屈み、跳び、躱して避けていく。捕まらなければ自然と足に力が戻ってきた。飛ばされた鳥籠を避け、走り続ける。センへと距離を一気に詰めると、鳥籠に向かって蹴りつけた。
格子は思った以上に脆かった。イユの一撃で大きく沈む。けれど、一回では駄目だ。早くこじ開けないといけない。
だが、そこで黙っている主ではない。何かがイユに迫る気配を感じ、イユはすぐに後ろへと退く。
瞬間、目の前に何かが通った。気付いたイユは思いっきりナイフを投げつける。
それはほぼ反射だった。本来、その行動は無意味なもののはずだ。何故なら、イユはなにもないところにナイフを放ったのだ。ナイフは、イユの手を離れてそのまま鳥籠にぶつかったはずである。可能性でいえば、中にいるセンに掠る危険もあった。
ところが、そうはならなかった。
「えっ、何……」
放たれたナイフは何故かその場に留まって浮かんでいる。そこを中心に、何かが蠢いている。見えないのは間違いないのだが、大きな生き物が叫び声でも上げたかのように空気が振動している。
驚いている暇はなかった。イユへと再び衝撃が襲い掛かって吹き飛ばされる。
意識が一瞬飛び、次に気がついたとき自分の体は地面にあった。起き上がろうとして、自身に巻きつく疲労感に膝が崩れる。床を手のひらで押し返してから、今まで感じた違和感を整理した。
「これは、風の魔法じゃないわ」
それが、イユの結論だ。何よりリュイスが使うときとは違い、空気の振動がなかった。あったのは、ナイフを投げたときだけだ。確かに何かが通ったときの空気の揺れはあったが、リュイスの魔法とはまた全然違う。
「レパード、多分だけれどこれは」
振り返ったイユは、言葉を失った。いつの間にか、レパードの姿がない。そこにあったのは幾重にも重なった手だ。それが全て手の甲を向けている。
取り囲むような配置だから、気がついた。主の手の狙いはレパードだ。持てるだけの数を殆どレパードにあてている。
幾らレパードが魔法を使えるからといっても、あの数は厳しいだろう。やはりイユ一人では時間稼ぎにもならなかった。せいぜい数体の手の注意を引いただけだ。
主はその圧倒的な数をもって、イユたちを捕らえることができる。
それどころか、今こうして見ている間も手の数が減らない。雷鳴さえ轟かない。魔法の光が見えないのは、抵抗する気力さえ奪われたのではないか。
イユが鳥籠一つ破ることのできない間に、事態は悪い方にしか傾かない。
「レパード!」
叫んだそのとき、手が一斉に動いた。




