その641 『語られざる男の過去』
「よく来たな」
文字通りの言葉だった。
あの男に呼ばれてやってきたとき、二度と元の世界には戻れなくなったことを悟ったのだ。
その手紙が届いたのは、子供を亡くして半年が経ったときだった。手紙の宛名は、セン。無名の料理人と余計な情報が書かれている。それだけで、誰からの手紙かは分かった。分かったが理解はできなかった。
このような手紙を書いてくる男は一人しかいない。ライゼリークだ。数年前噂がぱったりと途絶え、死んだとされた男の名前だった。
手紙が古いならまだ死ぬ前だったのだろうと思うところだ。ところが、その手紙は、恐ろしいほどに真新しかった。
あの男が絡むとろくなことはない。勝手な男だ。いつもそうだった。急に呼び出しては、人に無理難題を押し付ける。大人しく絵を描いたり料理をしていたりするほうが性に合っているというのに、何故かいつもごたごたに巻き込まれる。何回、魔物に襲われたことか分かったものではない。そのおかげで、妻と出会うことになったのだが、それも今となってはどうでもよいことだ。
とにかく、今回もろくでもない案件に違いない。読む前に破ってやろうかとも思う。いろいろなものに八つ当たりをしたい気分だったのだ。
それでも手紙を開いてしまったのは、手紙の送り手がじっと待っていたからだ。彼は『狩人代行』と名乗った。その男は書き手の情報を全く持っていなかったが、返事をもらおうとその場で佇んでいた。
別にその男は切実な目でセンを見ていたわけではない。どちらかというと、仏像のように玄関前で立たれたままなので、居心地の悪さを覚えた。
たださすがに遠路遥々やってきたその男に悪いと、そう判断するほどにはセンは人がよかったというだけである。
渋々開いた手紙の内容は、いつも通りシンプルだった。
「やることがないなら、『狩人』に従って、障壁を越えてこい。専属料理人の座がある」
あの男の専属料理人など、願い下げだ。やはり、破り捨ててやりたかった。ずっとこのまま妻子のいなくなった部屋で塞ぎこんで、絵でも描き続けていたかった。
よく子供にせがまれたものだ。美味しい料理、かっこいい飛行船の絵。外に出られない子供に代わって、食べたいものの味を再現し、見てきてほしいものをスケッチし、そうして過ごした日々がセンにはかけがえのないものだった。
最も、いつか終わりが来ることは分かっていた。妻は命と引き換えに子を産んでくれたが、その子供は生まれつき身体が弱かった。少し動くと喘息が起き、何日も寝込んだ。医者に何回も診せに行ったが匙を投げられてしまった。余命宣告を受けたときには、無慈悲な世界に何度拳を叩きつけたことか分からない。
そうした中、子供がセンに願ったのは、「見たことのないものを見せてほしい」ということだった。
いつも外の世界に憧れを抱いていた。「いつか自分もギルドの一員になって、魔物狩りに行くんだ」と言われたときには、「危ないからやめてくれ」と諭したくなったものだ。
憧れの対象は、外の世界だけでなくギルドで働いていたセンにもつながっている。それが分かったから、センは嘆くことを止めた。望まれるままに知らない場所に行って絵をスケッチし、知らない村で料理を習い、飛んで帰った。幸い村の人たちが子供をみてくれたから、その好意に甘えて離れることはできた。そうして何年も続けた結果、家にはセンしかいなくなった。
最期を看取れたのが唯一の救いかもしれない。冷たくなった我が子を海に還すこともできた。次こそは元気な身体で生まれてくるようにと祈って送り出した。
「君には子供がいたのかい?」
『狩人代行』はそう訊ねた。きっと、村の人間がセンのことを話したのだろう。彼らは優しいが、おしゃべり好きだ。センは静かなほうが好きだから、どうしてもこれだけは受け入れがたい。
頷くセンは、手紙を破こうと右手に力を込めていたところだった。交流を絶った、死んだと思っていた人間からの、いつもの傲慢な一文だ。なかったことにしたほうがずっと良い。
けれど、『狩人代行』はこう言ったのだ。
破こうとした手が、止まってしまった。
「それならばきっと、君の旅は終わっていないようだ」
手紙は『狩人』に従えとあった。『狩人代行』ではない。聞くところによると、『狩人代行』だけでなく『狩人』も手紙の主、ライゼリークのことを知らないらしい。ただ、『狩人』は自分の故郷から外に出るときにたくさんの手紙を持ってきており、それを知り合いに配る。『狩人代行』とはその知り合いのことだ。時には鳥を使い、時には自分の足で手紙を配る。
「私についていけとは、随分変わった手紙もあったみたいだね」
『狩人代行』に連れていかれた先で、『狩人』と落ち合った。その女は、自身をマレイヤと名乗った。野性的な美しさを持つ、金髪の女だった。フードを被っているのが勿体ないほどだ。
「私の故郷は、さてなんていうべきか……、ちょっとばかり厳しい掟があってね」
ぽりぽりとフード越しに頭を掻く。そのあとで、宣言した。
「一度行ったら二度と出られない」
何を言っているのかと疑うことはできた。あなたは自由に出入りしているではないかと、問い質すこともできた。
だが、センは、女のきりりとした鋭い金色の瞳に予感があった。蛇のように細い瞳孔は、何か別の生き物のようだった。これは戯言でも何でもないのだと理解したうえで、答えた。
「構わない」
どうせもう何も失うものはない。あの家にあったものは、全てが思い出だ。それに、我が子は「見たことのないものを見せてほしい」と言った。二度と出られない場所にあるものは、まさしく『見たことのないもの』だろう。終着点に、ちょうど良い。
そうして訪れた場所が、十二年前のカルタータだった。
「あの完璧主義者が、俺専属料理人とは笑えるぜ」
案内された飛行船の船長室で、センは久しぶりにあの男と顔を合わせた。お互い年を取ったらしく、その顔は記憶にあるものよりも皺が深い。それにしても、「よく来たな」と歓迎したその次の言葉が失笑とは、相変わらずの男である。
「……好きにしたらいい」
言い切ったセンに、ライゼリークは鼻を鳴らした。
「ハッ。無気力ぶりは変わってねぇのな」
出られないはずの場所からでも、センの話をしっかり聞いていたのだろうか。そんなことを言われた。
「おまけに、顔色最悪ときた」
障壁を越えたとき、身体に倦怠感を覚えたのは忘れていない。そうでなくとも、大して食事もとっていなかった。マレイヤに「体力がいるから少しでも食え」と無理やり食べさせられて、鬱陶しく感じていたほどだ。それが壁を越えた途端一気にふらついたものだから、自身の顔色は家にいたとき以上に最悪だった自覚はある。
「顔色なんぞどうでもいい」
「いいや、あるね」
ライゼリークははっきりと言い張った。
「こんな顔色の奴の料理なんて、さぞまずそうだ。客に出せねぇ」
「……客?」
はじめて聞く情報に、センは耳を疑う。
「そうだ。見ただろ、この船。まだ新空式もしていないが、俺たちで造った」
造ったと簡単に言ってのけるが、大型の飛行船だ。幾らライゼリークでもそれはあり得ないだろうと言いたくなる。きっと、言葉の綾で大型の飛行船を発掘して直したのだろうが、それも一大発見といえた。
「まさか、これに客を乗せて、遊覧船でもするつもりか?」
障壁から外には出られないと聞いている。だから、カルタータには飛行船があまりないのだという。
「はじめはな」
ライゼリークは悪意たっぷりの悪い顔で、にたりと笑った。
「そのうち、俺はここを出る。そしてここにいる奴らに外の世界を見せてやる」
くらくらと眩暈がした。ここにくるまで散々、二度と戻れないと聞かされていたのだ。それがこの男の計画では、カルタータから外に出るらしい。
「地面はな。隙がねぇんだ。隅々まで歩いたが無理だ。だが、空はどうだ? 不気味な龍はいるが、穴がないとは限らねぇ。探すんだよ。遊覧船って名目でな」
そこでセンは、自身がセーレの専属料理人となりライゼリークのカルタータ脱出計画に付き合わされるのだと知った。
「これは馬鹿馬鹿しいな」
思わず辛辣な言葉が出たが、それに挫けるライゼリークではない。
「最高だろう。お前の好きな子供もたくさん乗るぞ」
自分が好きなのは我が子だと、そう言いかけて口を噤んだ。トントンと、ノックの音がしたからだ。
「あぁ、入っていいぞ」
「失礼します」
そうして入ってきたのは、ゆったりとした服を着た美しい若い女だった。二人のテーブルの前にお茶を置く。
女の動作で、すぐにセンは気がついた。服のおかげで分かりにくいが、間違いない。この女の腹に子供がいる。子を身籠っていた妻と動き方が一緒なのだ。
「大事なお話し中だと聞いています。ですがどうか、ごゆっくりどうぞ。お茶がなくなったら呼んでくださいね」
朗らかに笑いながら、女が出ていく。その様子を見守ってから、センはぽつりと呟いた。
「……ライゼル。お前の女か」
ライゼリークは、さぞ嬉しそうに笑みを浮かべた。センの事情を知っての笑みなら、大した図々しさだ。
「そうだ。俺の伴侶にもってこいの、最高の女だ」
「子供もいるのか」
「腹の中にな」
苦虫を嚙み潰したような顔をしている自覚があった。羨望なのか、怒りなのか、自分でもどんな感情を抱いているのか分からなかった。
「実は気になっていたんだよ。妻が死んだだの子供が病気だの、お前の悪い噂だけは聞いていたからな」
男、ライゼリークはぽつりとそう呟く。それで、センにはわかってしまった。
この男は、昔から無茶苦茶な男だったが、カリスマだけはあった。だから、ギルドで噂が出るほどの有名な人物でもある。そして、そうなるには相当の理由がある。
この男は、懐が深いのだ。関わった者は全員、幸せにしてやろうとする。センもまた、救われる側に立ったのだと気づいてしまった。
目頭ががっと熱くなって、ずっと渇いていたはずの感情が沸いた。
「憐れんだつもりか?」
なるべく低い声で威嚇するように唸ったが、ライゼリークには効かなかった。
「まさか。単に勿体ねぇと思っただけだ」
からからと笑い声さえ立てられる。ライゼリークという男は、こういうときだけ絶対に認めない。
「勿体ない?」
「そうだろう? お前ほどの奴を死者が給仕させるのはな」
我が子を死者と呼び、給仕と表現される。人によってはこの時点で怒ったかもしれないが、センという男をライゼリークはよく知っていた。
「給仕だと?」
「そうだろう? お前が作った料理を食べてくれる奴はお前の家にはもういねぇ。たっぷりの料理を皿に載せて並べたあとは意味もなくしまうだけだ。その無意味さを本当は知っているからこそ、お前は今ここにいるんだ」
まるでセンの行動を見てきたようだった。どこまで知っているんだと言いたくなる。同時に勝てないと、強く感じる。いつものことと言えば、いつものことだ。ライゼリークに口で勝てたことなどない。元々センは無口な男なのだ。口上手な人間には敵わない。まして、ライゼリークの指摘は的を得ていた。
そう、センは本当は心のなかでは気付いていた。誰もいない家で料理を作っては捨てる日々。絵を描いては破く日々。ずっと家に閉じこもって、いない家族に捧げる時間。そんな時間を過ごしても、家族は決して帰ってこない。思い出に浸って模倣するだけの行為を、確かに無意味だとは気付いていた。それでも手放せなかったのだ。この男の手紙が届くまでは。
「良いだろう」
承諾の言葉は溜息とともに出た。
「ライゼル曰く、元々俺は完璧主義者だ。せいぜい完璧な料理を出してやる」
あの『狩人代行』の言う通り、センの旅は終わっていなかった。
そう、悟った。
だから、たった数ヶ月後に、セーレが襲撃されるとは思いも寄らなかった。子供を庇おうとして頭をやられたときにも、気がついたときにはライゼリークが死んだと言われたときにも、実感が湧いてこなかった。
まるで、目の前にカーテンがあって、その向こう側で誰かのやり取りを聞いているような気分だった。
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