その64 『緊急事態』
船まであと半分の距離に差し掛かったころ、リュイスが足を止めた。
「待ってください」
どうしたと聞く者はいない。皆が警戒をし、耳を澄ませる。魔物はいないはずではないかと言いたくなったが、あくまでそれはイユたちの勝手な予想だ。スズランの森に適応できる魔物がいないとはいえない。魔物の脅威度、そして数はどうなのか、思考を巡らせ気配を探る。同時にゆっくりと、抱えていた木を置いていく。少しして、茂みを走る何人かの足音を拾った。
「人?」
その音は止まる様子もなくずっと続いている。考えられる可能性を頭に思い浮かべる。まずは、住民がいる可能性だ。船から見た限りでは村落はなかったが、少数ならば分からない。次に人のように二足歩行のする魔物がいる可能性である。これもありえなくはない。最後に、魔物から逃げているセーレの誰かだ。
「リュイス! 皆!」
聞き慣れた声とともに、目の前の茂みが切り刻まれた。そこから白い子供が飛び出てくる。
「刹那!」
声は、いつもの刹那らしからぬ切羽詰まったものだった。
刹那の服は一部破れ、ところどころに傷を負っているのが確認できた。何かにやられたのは間違いない。
ことの大きさに気がついたリュイスが、真っ先に駆け寄る。
「魔物か? 他の奴らは」
ジェイクが焦った声で聞く。魔物がすぐ近くにいる可能性を考えてナイフを取り出している。その手が震えている。
刹那はナイフに愛されていると言っていた。その刹那が逃げてきたのだから、ジェイクでは敵わない相手だということを理解しての震えだと思われた。
「アグルが……」
そのとき、ばたばたと走る足音が響く。一行は警戒したが、出てきたのはレンドだった。刹那と同様、体中に無数の傷を作っている。走り詰めだったのだろう、荒い息をついていてすぐに話せそうにはなかった。
「アグルがどうしたの?」
堪らず、イユは催促した。もし魔物に追われている最中なら、息をついている暇はないはずだ。同時に続くはずの足音が聞こえないという事実が、嫌な想像を浮かばせる。
「アグルが……、魔物に、攫われた」
レンドが荒い息を突きながらも、刹那の言葉を継いで説明する。
「でっけー、……鳥みたいな、魔物だったんだ。 岩みたいな肌をしていて、……ナイフが全く、効かなかった」
大きな鳥の魔物が岩みたいな肌をしていると言われても、想像が難しかった。
「いきなり襲ってきて、叩きつけられた」
刹那たちの話をまとめると、こういうことだった。森を探索していたら、急に岩のような肌の巨鳥に襲われた。そのとき不意をつかれて重傷を負ったのがアグルで、刹那とレンドは軽傷ですんだ。三人は当然逃げようとし、刹那がナイフによる足止めをしようとしたが全く効かず、逃げ遅れたアグルは連れ去られてしまった。応援を呼ぶべく刹那たちは走り、セーレに着く前にイユたちに出会った。
「攫われたということは、アグルは生きているのですよね」
恐る恐るのリュイスの質問に、刹那は頷く。
「嘴に咥えられて、そのままどこかに」
鳥というからには巣だろうかと、イユは至らぬ想像力で考える。巣には小鳥がたくさんいるのだろう。アグルという餌を待って皆が口を開けている。
「その魔物と出会ったのはいつ」
余計な妄想を振り払い、聞く。
「三分前」
動揺していただろうに、刹那からは的確すぎる答えが返ってくる。
「ということは、魔物はまだ近くにいる可能性がありますね」
リュイスがミンドールへ振り仰いだ。
「セーレへの伝言、頼めますか。すぐに救援が必要です」
「ああ、わかっているよ」
ミンドールは木を下ろしたままにするようにと指示をする。事態は一刻を争う。木は後で回収すればそれでよいという。
「イユさん。申し訳ありませんが、お付き合い願えますか」
お人よしのリュイスのことだ。言われなくても言いたいことがわかった。
「……今からその魔物を探してアグルを連れ帰るから、見張り役のリュイスについてくるようにってことかしら」
なるべく感情を出さないように淡々とその可能性を聞いてみると、あろうことか満面の笑みを浮かべられ頷かれた。
イユとしては複雑だ。
確かにアグルを助けたら、セーレの皆を説得する機会にはなるかもしれない。
しかし、普通に考えて魔物に連れ去られた人間が無事とは思えない。亡骸を連れて帰ったところで、印象は大して変わらないだろう。それどころか、今回は刹那でさえ歯が立たない相手だ。幾らリュイスの魔法があったとしても危険なことに変わりない。セーレに残るためにと欲を出して、逆に自分が死んだら、それこそ意味がない。
とはいえ、『アグルなんてもう魔物に食べられているのだから諦めよう』などと言わないだけの理性は残っている。それを口にしたなら最後、レンドたちを完全に敵に回してしまう。
「刹那、疲れているところ申し訳ないのですが道案内を頼めますか」
「うん」
刹那は着崩れている服を直し終わると、いつでもいけるとリュイスに返事をする。息は、全く乱れていなかった。それどころか、危険な魔物に再度遭遇することへの恐れも感じていないようだ。刹那の感覚はどこか狂っているのではないかと思う一方で、こうも閃いた。
――――いざとなったら刹那たちをおいて逃げればよいのだと。
危険な魔物相手に一度逃げたのは、刹那やレンドも同じだ。同じように危険と判断しイユだけが一人逃げ帰る判断するのは何もおかしなことではない。大したことがない魔物であればイユも手伝うとして、命に関わると思ったら早々に退避すればよいのである。
頭の中でそう自身を説得させていると、ミンドールから発言があった。
「じゃあ、リュイス。それにイユ。くれぐれも無茶はしないようにね」
「えぇ、ミンドールも救援を頼みます」
「……俺様もと言いたいところだが」
ジェイクがため息をつく。
「あんたじゃ力不足ね」
ジェイクは異能者でも龍族でもない。刹那たちがやられている以上、普通の人間が一人や二人増えたところで却って足手まといだ。何よりも自身の生還率を上げるために、言ってやった。
「死ぬなよ」
「あたりまえでしょう」
いざとなったら自分だけでも逃げてくると心の中で誓って、断言した。
「リュイス。こっち」
刹那が再び茂みに入り込む。一分一秒が惜しいのだろう。動きに無駄がない。リュイスが続き、イユも後を追いかけた。




