その639 『霞む絶望』
「ラダ!」
自身の叫び声が、周囲に反響して耳に入ってくる。
駆け寄ろうとするが、思いのほか足場が悪く、何度も転びそうになる。ここにきて、なぎ倒された枯れ木の折れた枝や壊れた鳥籠が邪魔だ。
視界の先では、ラダがうつ伏せに倒れている。その背中にはぱっくりと割れた切り傷があった。懸念した火傷のような傷はない。それで、少なくとも魔法には巻き込んでいないと察した。
だが、安堵はできない。ラダは見た限り重傷だ。森の主にやられたのだろう。何にかは分からないが、背中だけではなくあちらこちら傷だらけなのが遠目にも分かるのだ。とりわけ、足元が酷かった。あれでは、歩けないかもしれない。
「つっ!」
瞬間、気配を感じて身を竦める。地面が陰ったのを見届けて、滑り込むように前へ飛ぶ。レパードのすぐ頭上を、レパードなど簡単に握り潰せてしまいそうなほど大きな手が、落ちてきたのだ。落ちた勢いで揺れた風を、背に感じる。更に恐ろしいのはその手が再び地面から浮かび上がる気配を感じたことだ。
レパードの魔法を受けて倒れてきたのならば、良かった。そうではなく、何事もなく起き上がったということは、レパードを狙って仕掛けてきたことになる。つまり、レパードの魔法が効かなかったのだ。脅威を前に、ひりひりと背中のあたりに痛みを感じた気がした。
先ほどの魔法は、確かに時間を掛けたものではなかったが、暴発の心配をしてしまうほどに、強力なものだ。もう一度放てと言われたら自信がない。それほどの力をぶつけたのにもかかわらず、鳥籠の森の主は防いだ。それでは、レパードに勝算などない。
再び手が襲い掛かってきて、レパードは寸前のところで飛んで避けた。足がもつれそうになるが、どうにか踏みとどまり、走り続ける。そうしながらも、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。魔法が効かないとなると、レパードにできることは、逃げることだけである。その時間と余裕が、今のレパードにはない。それが分かっているからこそ、頭の中は真っ白だ。
せめてリュイスがいれば事情は違ったことだろう。リュイスならばたった一人で大して集中せずに風の刃を放ててしまうほどの強力な魔法を行使できる。それも、暴発を恐れて力を満足に発揮しない状況でだ。
残念ながら、早く走れる人と遅く走れる人がいるのと同じことで、この力の差ばかりはどうにもならない。いないリュイスに期待することもまた、無意味だ。レパードたちは、鳥籠の森に入るときに、リュイスではなくレパードとイユを選んだ。その決断が招いた結果だ。
「ラダ! 動けるか、ラダ!」
ラダに近づいてきた。必死に声を掛ける。びくともしないラダを見るに、動く以前に意識を失っているようだ。
ぱっと見た限りでも、魔物にいたぶられたと分かる有様なのだ。これでラダに、意識を取り戻して怪我した足で自力で逃げろとまでは、到底言えまい。
無駄とわかりつつ、魔弾を放ち、再び襲ってきた手を牽制する。そこで気がついた。
「あぁ、クソッ……!」
レパードの魔法は効かないわけではない。撃たれると、手は痛そうにその場で震わせる。足止めはできているのだ。
ところが他の手が、そっとその手に触れると、今度は三つに分かれてレパードに飛びかかってくる。この事実は、脅威的だった。
鳥籠の森の主の手は、あろうことか複数に分裂できてしまう。しかも際限がないのか、どんどん数を増やしていけるのである。
あっという間に一体の手が六体になって、襲ってくる。
これは厳しいと、レパードに焦りが生まれる。ラダを背後にかばう形で、駆け寄ることまではできたものの、次の手が思いつかない。必死に魔法で抵抗するが、その間にも数は増えるばかりなのだ。
ラダが逃げられない状況である以上、魔法で牽制しながらレパードが安全なところまで運ぶしかない。けれど、そんな余裕は到底ない。それどころか、そんなことを悩んでいる間にも手は増々増えていく。こうなると、幾ら魔法が効いても、レパードでは防ぎきれない。すぐにでも終わりがやってきてしまうことは自明だ。
必死に情報を求めて、周囲を観察する。自身に手立てがない以上、周囲の環境から少しでも有利になる情報を掻き集めるしかない。
森の主の手の合間から、タラサが見えた。森の主の手によって、タラサも包まれつつある。今だから分かるが、倒れた木々は森の主ではなくタラサの仕業だろう。タラサは森をなぎ倒すように進んでいったのだ。
そして、視界の端では鳥籠に埋もれるようにして倒れているマーサとセンの姿も捉えていた。ラダが誰を庇ってこのような無茶をしたのかは、すぐに分かるというものだ。
襲いくる手を魔法で牽制しつつも、冷や汗が伝う。周囲の状況は、起きた出来事を予想するばかりで解決策を生まない。せめて時間が稼げればもう少し強力な力が使えた。その余裕が周囲含め全く手に入らない。二倍三倍と数を増していく相手のせいで、瞬く間にレパードの視界は影のような手に覆い尽くされていく。
それはまるで、地獄から滲み出た黒い染みだった。レパードたちを塗りつぶさんと、悪意の塊が圧倒的な力を持って攻め寄せようとしている。きっとあの手に潰されたら、身体だけでなく魂さえも海に還れずに終わってしまうことだろう。
絶望で視界が霞む。レパードたちが喰われたら、きっとタラサもやられる。そうなれば、中にいるだろうシェルやクルトたちも同じだ。全員、森の主に遭遇したことで喰われて消える。
そう、全てが終わりだ。贖罪も、レパードが背負ってきたことも、今までの苦労も、仲間の命も、なかったことのように消し飛んでいく。
弱音を吐きかけたのがいけなかったのか、魔法をすり抜けて一本の手が飛び込んでくる。その手がレパードを喰らおうと、大きく拳を開いた。
「レパード!」
背後から声が聞こえて、あっと叫びたくなる。イユの声だ。リーサたちを置いて駆けつけてきたのだろう。ワイズから無理をさせるなと言われているのもあり、本当は怒ってやりたいところだったが、助けになるのは間違いない。
事実、新たな人間の登場に森の主の動きが止まった。開いていた手を閉じ、何かを考えるように手ごと傾く。それはまるで、首を傾げるかのようである。
「なんで、タラサが!」
一方で、イユ自身は自分がもたらした効果を知らない。手の合間から、タラサが見えたのだろう。叫んだイユの驚きを感じ取って、レパードはすかさず返した。
「事情は俺も知らん! 攻撃するほど分裂する奴の相手が先だ!」
イユの目であれば、レパードが背にかばう形で、ラダが倒れていることも捉えられたのだろう。
「分かったわ!」
威勢の良い返事とともに、駆けつけてくる気配がある。イユはまだ気がついていないのだ。
「マーサたちを頼む!」
慌てて叫びながら、右手から襲いかかってきた手を銃で撃つ。
更にその奥でイユに狙いを定めていたのか、レパードより遠くに向かって飛びかかろうとした手を、魔法で撃ち抜いた。
悪手かもしれないとは、考えた。イユにラダを引き上げてもらったほうが、レパードとしては動きやすくなるからだ。だが、手の数がここまで増えてしまったら、マーサとセンが襲われたとき助けにいけない。人をやれるとしたらまずはそこに割きたかった。
イユはマーサとセンを見つけたようで、レパードのすぐ脇を抜けて走っていく。一瞬見えた横顔は、レパードが放った魔法に目を細めつつも、真っ直ぐに前を向いていた。




