その633 『あのとき その3』
「マーサ、起きた?」
声がして、マーサは大変驚いた。身体を起こすと、そこに見慣れた姿がある。
「刹那ちゃん?」
間違いなく、刹那だった。黒い格子の向こう側で、朗らかな笑みが返る。刹那の表情は乏しいと皆に言われるが、この顔は間違いなく安堵だとマーサには伝わる。
「マーサ、ずっと寝てた。大丈夫?」
大丈夫かと聞かれて、マーサはようやく周囲の様子を確認した。目の前の格子は、外に見える鳥籠と同じものだ。刹那が入れられているのではなく、マーサがそこに入っている。刹那がどこか困った顔を浮かべたから、刹那にはマーサを外に出すことができないのだと理解した。
それにしても、ここはどこだろう。いつの間にか屋外にいる。縛られていたはずだがロープの類はなかった。鳥籠が牢の代わりだから必要ないということなのかもしれない。
頭がどこかぼーっとしているのは、まだ男の魔術の弊害が残っているのだろう。身体があまり言うことをきかないのは、長い間捕まっていたせいかもしれない。その割には、お腹は空いていないし喉も渇かない。眠っている間に栄養剤を打たれた可能性はあった。
「自分のことだけれども、あまりよく分かっていないわ。でも、運ばれちゃったみたいね」
マーサの答えに、刹那はこくんと頷く。
「式神は制御が効かないって克望が怒ってた。拘束も、もう少し怪我人を出さない予定だった」
それは刹那なりの謝罪と言い訳に聞こえた。珍しいこともあるものだ。刹那はいつも頑張り屋で、頼んでいない仕事もきちんとこなす。だから謝る必要がそもそもないし、言い訳をすることもない。頑張った刹那ができなかったことがあるのであれば、刹那の事情を理解できていないマーサにも言える言葉がある。
「ありがとう」
刹那がその言葉に、虚を突かれたような顔をした。それから取り直すように、聞く。
「マーサは平気?」
今の置かれた状態に対してか、刹那のことも踏まえての確認のように、マーサには聞こえた。だからこそ、返事は決まっていた。
「そうね。私は大丈夫よ」
「マーサは壊れてない……」
ぽつんと呟いた刹那が、何かを追いやるように首を左右に振る。
「でも、解放もできない」
苦悶の表情を浮かべていると分かったけれど、マーサが手を差し伸べても鳥籠の外にいる刹那にはまだ遠かった。
刹那はぶつぶつと続ける。
「記憶を操作して解放するつもりだったけど、まだ船長たちが探してる。そのままここにいてほしい」
言い訳のように呟く様は、いつもの刹那らしくない。だからこそ心配だった。
「私は、もう来られない。無事でいて」
ぴょんと跳ぶ仕草とともに、刹那の姿がマーサから消える。マーサは慌てて乗り出したが、鳥籠の前には太い木の幹があって、その下は深い霧に包まれて見えなかった。
変化があったのは、数日後だ。鳥籠の中に置かれていたバスケットからクッキーを摘まんでいると、ガシャンという音がしたのである。振り返ったマーサが見たのは刹那によく似たあどけない子供が金髪の男を投げ入れる瞬間だった。
「まぁ、センさん!」
男の姿を確認して、マーサは思わず駆け寄る。センは気を失っているようで、抵抗もなく床に転がった。
再びガシャンという音とともに扉が閉められる。そのときにはもう、子供はいなかった。刹那と同じで飛び降りたのだろう。
残念ながら閉められた直後、鍵を閉める音も聞こえたから、鍵のかけ忘れもなさそうだ。
マーサはそれを見送ると、すぐにセンを揺さぶった。
「センさん、大丈夫ですか」
声も掛けるが返事はない。
けれど、マーサはそこでセンが気を失っているわけではないことに気がついた。目が開いている。ただ、何も映していないのだ。それは心だけが抜かれてしまった人形のようだった。
「センさん、しっかり!」
慌てて何度か揺すると、ことんと何かが落ちる音がした。見下ろすと、丁寧に畳まれた紙がある。マーサはすぐに手に取った。
「壊れたセンをなおして?」
文面の最初に書かれていた言葉だ。筆跡から直ぐに刹那だと分かった。刹那は普段の性格に似合わず生き生きとした字を書くのだ。
「意識があったから、記憶を読んだって聞いている。マーサと同じ。なんで、セン壊れる?」
手紙を読んだマーサにはそれが刹那の悲鳴のようにも聞こえて、そっと胸を抑える。
「そんな、壊れるだなんて。大丈夫、私がみてみるから」
センはよく見ると怪我もしていた。包帯を巻かれているのは、刹那が対応しただろうか。とりあえず、そのお陰で怪我はどうにかなりそうだ。問題は魔術の後遺症だろう。きっと、マーサと同じことをされたのだとは手紙から読み取れる。だから、センの状態は心に関係することなのだ。
そこまでは分かった。だが、その先が分からない。どうしたら今までみたいなセンに戻ってくれるのだろう。
「分からなくても助けないと」
弱気になり掛けたので声に出してみる。言葉には力がある。決意を口にすることは、自然と心を落ち着かせてくれるのに役立つ。
「センさん、目を覚まして」
とりあえず、マーサはセンの好きな料理について話して聞かせることにした。
鳥籠のなかでどれほど時を過ごしたのだろう。霧のせいで時間がよく分からない。永遠だった気もするし、一瞬だった気もする。ただ、食糧は渡されていたので、空腹を感じたときに口にすることはできた。合わせて水も与えられていたが、量は減っている。ずっとセンに向かって話をしているせいか喉の渇きが早いせいだ。そのためか、時々視界がぼやける。
だからその音が聞こえたときも、幻聴の類だと思った。それが本物だと気がついたのは、周囲の空気が震えだしたからだ。
「あら? 何かしら」
泣き止まない遠吠え。無風だと思っていた大地で、霧が波紋を描くように揺れていく。
何かただならぬことが起きているとは思ったが、どうしてよいかは分からない。風の向きから出処を追って、様子を探るだけである。
そうこうするうちに風の勢いが強まった。何か大きなものが近づいてくる気配とともに、鳥籠が揺らされる。
「センさん!」
動かないセンでは、揺れになすすべもなく転がっていってしまう。マーサは自身の身体で覆い被さることでそれを防ぐ。
けれど、その間にも揺れは激しくなる。目をぎゅっと瞑って衝撃に耐え続けていると、ふいに浮遊感があった。
あっと思ったときには、マーサの身体は衝撃に弾き飛ばされる。背中から強く打ちつけ、顔をしかめた。
どうにか目を開けると、格子が歪んでいるのが映る。見下ろせばセンが仰向けで倒れていた。
センの無事を確かめるべく近づいたところで、土色の地面が視界に入る。
それで、今の風で鳥籠が枝から落ちたのだということに気がついた。
けれど、風は鳥籠を揺らして終わりではない。何度も風に揺られる。センに触れて無事を確認するだけでも一苦労だ。
「あらあら、困ったわ」
そう呟きたくなるほどに、マーサにも現状が読み込めた。鳥籠の格子が一ヶ所、崩れ落ちたのだ。鳥籠が魔物避けになっていたようだったが、恐らくこうなっては本来の効果は発揮しないだろう。
それどころか、朧げな視界でもはっきりと分かってしまった。風が流れてくる先に、ただならぬ気配がある。戦いからはほぼ無縁のマーサにもはっきりとわかる、死の気配だ。それが黒い影を伴って、姿を現す。
あっという間のことだ。手のような何かが見えたと思ったときには、一気にそれが近づいてくる。触れたものを次から次へと枯らしていく不気味な手。まるでこの世のすべてを憎むかのような、死の塊がマーサたちに迫る。
逃げる間も、悲鳴を上げる暇さえ、与えられない。無慈悲なそれがあっという間にマーサに振りかかって―――――
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