その632 『あのとき その2』
そして気がついたとき、マーサは見知らぬ部屋で目を覚ました。目隠しをされているらしく、目を開けても視界が暗いままだ。そのうえ身体も満足に動かなかった。ロープで縛られているようだ。頭ががんがんと痛むなかで、ぼんやりとどこからか聞こえてきた会話を耳にする。
「……尤も情報を持っている可能性が高い人物だという話だな?」
「うん、運ぶ」
「あぁ、頼んだ」
身体を持ち上げられる感触に、マーサは今の会話が自分のことだと気がついた。そうなると、セーレにやってきた子供たちは他の皆をどうしたのだろう。マーサの願い通りに助けてくれたら良いが、まだ今のままではよく分からない。聞こうとしても口を塞がれてしまっている。
あれよこれよと運ばれていく間に、ここがどこかの建物の中だと気がついた。セーレでないことは通路や階段の長さからも想像がつく。そうなると、子供たちの裏にいるだろう大人のいる建物かもしれない。運ばれているということは、大人の元へ連れていかれているとみるべきだろう。
「縛る」
乱暴に床へと転がされたと思ったら、腕を掴まれる。どうも手をどこかに縛り付けられているらしい。
それが一段落すると、目隠しをごそごそといじられる感触があり、視界が開いた。
とはいえ、あまりに眩しすぎて様子はよく分からなかった。子供らしき人影がみえるがそれだけだ。
「逃げたら駄目」
声が掛かったが、返事も出来なかった。そもそも口は塞がれたままだ。返事は期待していないのだろう。
人気がなくなり、しんとした空気に出迎えられる。暫くすると、目も慣れてきた。石畳が視界に入り、そこに寝かされているのだと理解する。周囲の壁や檜の香りから、ここがシェパングだと察した。随分遠くまで連れていかれてしまったようだ。
「目を覚ましたか」
男の人の声がして、マーサは僅かに顔を上げた。シェパングの装束に身を包んだ品の良い男が見下ろしている。一目でこの人が子供たちの裏にいた人物だろうと想像がついた。
「始めろ」
声に頷いたのは、どこからともなく現れた子供たちだった。無理やり立たされて、今度は近くにあった柱に身体を縛り付けられていく。
大人しくしている以外なかった。子供とはいえマーサの力でどうにかできるほど、優しくはない。複数人だということもあるが、子供たちは皆、子供とは思えないほどの怪力だった。
「怯えていないのだな」
意外そうな声で男に問われる。マーサはそれに返事が出来ない。
口は塞がれたままだから、この男もまたマーサに返事を期待していないのだろう。
実際に男の視線はマーサを離れ、子供たちへと向く。マーサなどいなかったように、やり取りが始まった。
「さて、長丁場になる。人避けは確実に。ただし抵抗したからといって、今回みたいな仕打ちは無しだ」
「無し?」
「あぁ、暴力は我の嫌うところ哉。牽制だけでよい」
今回というのが、セーレを襲った件だということがすぐに分かった。何か手違いがあったのか、或いは今回だけは特別に暴力を認めたのか、そこまでは読み取れない。
考えるよりも前に、マーサの目の前で手を振りかざされ、意識がそちらにいった。
「良いか? 抵抗はするな」
元よりそのつもりだった。願うことしかできないマーサは、自身の無力さをよく理解していた。もし彼らに願いを叶える気があれば、マーサには抵抗する理由がない。言葉が話せないせいでセーレの皆が無事か確認することが出来ないことだけが気掛かりだった。それに暴力を嫌うと発言した男だ。子供たちの前で余程変な真似はしないだろうとアタリもつけていた。
だからはじめに男の手が心臓に当てられたときも、大人しくしていた。そこから熱が伝わってきても、別段穏やかな気持ちでいられた。確かに息苦しさは感じたが、それは自身の恐れが体現されたものだろうと、どこか達観していた。拷問のような恐ろしい行為ではないのだ。嗤いながら人をいたぶることに喜びを覚えるような酷い人たちとも違う。ただ、時折身体を蝕む痛みとともに、何故か昔の記憶が甦る。
リーサたちと食事を作る毎日に、ライゼリークに出会った頃の優しい思い出。そして、十二年前の出来事。
「うっ……」
思わず呻いたのは、赤ん坊の泣き声が聞こえた気がしたからだ。何もできない無力な自分の、唯一出来なくてはならなかったこと。申し訳なさが身体を再び焼いて、マーサの意識は唐突にうつろい始める。
「マーサさん。お願いがあります」
もう動かない赤ん坊をかかえるマーサの部屋へと、一人入ってきたのは深刻な顔をした少女だ。その手には、マーサが失ったばかりの赤ん坊を抱いている。
「酷いお願いであることは分かっています。でも、クルトを助けてください」
赤く腫らした目元が、疲労でやつれた顔が、全て痛々しかった。幼い子供がする表情ではない。
だから、マーサには嫌だと言うことなど出来なかった。哀しむ時間も死者に謝罪する余裕もない。唯一マーサにしか出来ないことが残っているのであれば、動くしかなかったのだ。
「大丈夫よ、ラビリちゃん。ほら、おいでなさいな」
緊張で強ばっている子供には、なるべく笑顔を向けるべきだ。マーサには、まだライゼリークの残してくれたセーレがある。泣いている場合ではない。ある意味ではラビリや彼女の連れた赤ん坊も、彼からの置き土産だ。せめて、顔だけは笑みを作って、安心させてあげるのだ。
そうして、少しでもあの人が残した物を大切にする。それが、何もできない自分に出来る最善だ。
だから、自分の手にある冷たくなった赤ん坊をそっと脇にやらないといけない。ごめんなさい、そう呟きたくなる。
「生かせてあげられなくてごめんなさい。長生きしたかったよね? お父さんが見せてくれるっていっていた外の世界を、全然見せてあげられなくて、寂しいね」
心にたまった感情に蓋をして、子供を手放す感触に耐えながら、敏いラビリにみえないように笑みを張り付けて――――
次の瞬間、水の感触に意識が引き戻された。前髪から滴る水に、頭から水を被ったのだと理解する。バケツの水をひっくり返したようで、服までびしょ濡れだ。
「申し訳ない」
男の声に、マーサは驚いて目を大きくする。まさか、水を掛けた本人から謝罪があるとは思わなかったのだ。
「我は貴女に思い出したくもない過去をほじくり返している。そして、土足で過去を覗き、使えるものがないか吟味しているのだ」
その言葉に、男の謝罪が本心だと感じ取る。本当は優しい人なのだろう。だから、本人も苦しいのだ。けれど、そうしないといけない理由がある。それは何なのか。
「平和のためだ。恨むなら我を恨め」
再び男はマーサに手を向ける。続きが始まったのだと思ったが、できれば声を出させてほしかった。
男は勘違いしている。マーサはどうなったとしても男を恨むつもりはない。それに、苦しそうな顔をして平和を語っても、きっと本当の平和にはならない。本当の平和は皆が笑って掴みとるべきものだ。誰かが泣いていたら、それは悲しい。
けれど、思いを伝える機会は与えられない。意識が途切れ、再び冷たい水とともに引き戻され、一旦休憩を与えられ、そして再び始まる。そうした日々がずっとずっと、続いていく。今が朝なのか夜なのかそんな当たり前のことさえ、分からない。
ただ、目の前の男の悲しみが深くなる。マーサの記憶に共感しているのだろう。
「酷い仕打ち哉。罪のない人間を巻き込んで、意味のない殺しをさせている」
ぽつりと男が呟いたのは、マーサがまた意識を失う前だった。
「分かったところでどうすることもないだろうが、恐らくはイクシウスの施設長の仕業であろう。そう考えると、いろいろなことに合点がいく。それに、あのときの施設長は、『魔術師』のなかでも悪名高かった。さすがにこれほどのことをする悪魔とは思わなかったが」
だが、と男は続ける。
「シェパングに罪がないとは言えまいよ。『龍族』を思いのまま操り始めたのは、うちだ。全く、業深きこと哉」
本音で告げていると分かったから、せめて目だけは男へと向けた。蒼白な顔で眉間に皺を寄せている男が、何故か可愛らしく映る。
「しかし、何故我を恐れないかは分かった」
きっと、本当に悲しんでいると伝わるからだ。その手は絶えずマーサに苦痛を与えるが、男の心はそれを望んでいない。そうして悲しんでいる人を前に何もできないでいることが苦しかった。
「本当の地獄を見た人間に、恐れなど抱けるはずがなかった。そうした感情など、とうに捨て去ってしまっているのだろう?」
終わりは唐突だった。
目を覚ましたとき、そこは室内ではなかったのだ。枯れてしまった木々の先で鳥籠が揺れている。それをみたマーサは、夢を見ているのだろうと現実を疑った。




