その631 『あのとき その1』
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あのとき、全てが遠くに聞こえた。
「ヴァーナー、ヴァーナー! 目を覚まして!」
取り乱した声に、マーサは胸を抑える。戻らないセンを追って飛び出したものの、状況が掴めない。
まず目に入ったのは、散らばったテーブルだ。魔物に襲われたときに壊れた壁が、再びむき出しになっているのも視界に入る。その近くでセンが気を失っており、子供たちに取り囲まれている。
黒い垂れ布で顔を覆った見たことのない子供だった。けれど、その佇まいが誰かを連想させる。
一体何が起こったのだろうと、マーサは呆然とする。何かあったかもしれないと言ってセンが飛び出たのはほんの少し前のことだ。皆が少しでも満腹感を感じられるようなレシピを考えていたのは、更に数分前のことである。それが何やら突然の客に、この惨状である。
「い、いや……、来ないで」
怯えたリーサの声が耳に入って、呆けている場合ではないと切り替える。現状はまだ理解できていないけれども、リーサが怖がっていることだけは分かる。それならば、マーサがやるべきことは一つだ。
「もうやめてください」
リーサは十二年前に心の傷を負ってから、ようやく前へと進めるようになったのだ。その彼女をまたしても傷つけるなんてことがあったら、あまりにも悲しい。
「リーサちゃんたちを傷つけないで」
倒れているヴァーナーの様子を遠目に確認しての発言だった。ヴァーナーが怪我をしているのなら早くその怪我をレヴァスにみせないといけない。そう、考える。
それから、どうして子供たちはここにきて武器をかざしているのかと思案する。子供たちにもやりたいことがあるはずだ。それを聞かなくてはならない。
「私が船の所有者です。用があるならそれは私にしてください」
首をマーサへと向ける子供の動きがどこか機械的だ。まるで人形の首を動かしたら、こうなるのではないかと思えるような動かし方なのだ。しかも、その顔がきっと無表情だということが、顔を覆った黒い垂れ布越しに伝わるのだから不思議だった。
鳥肌が立った。息も呑んだ。顔にだけは出さないようにした。
「お前、抵抗する?」
確認されて、はっきりと明言する。気持ちを込めて、少しでも子供に伝わるようにと祈った。
「いいえ、私はお話をします」
子供は武器を構えて、階段を駆け下り始める。
それを見て、マーサはほっとしたのだ。
これでリーサに危害が及ばなくてすむ。上手くいけば、センやヴァーナー、船に乗っている皆が傷つかずにすむかもしれない。
「マーサさん!」
悲痛なリーサの声が、それだけ叫んだところで途切れる。見ると、子供が手刀を入れたところだった。
「お願いしてもいいかしら。これ以上皆を傷付けるのはやめていただけない?」
にこっと笑うマーサは、敵意がないことを手を広げて証明する。
「どうすれば、酷いことをしないのか教えて下さる?」
階段を下りきった子供は、ナイフを掲げたままだ。その口が動いた。
「お前、カルタータの人間か」
ちゃんと会話が成立するのだと、そう理解する。それならば、手は打てる。
「そうよ。あなたの知りたいことは何かしら」
カルタータと聞き、情報を欲しているとアタリをつける。ところが、返ってきた答えは意外なものだった。
「知らない」
押し掛けておいて知らないとはどういうことだろうと、マーサは悩む。少しして思い付いた。
「あなたたちのお仕事は何かしら」
子供たちの後ろにいる誰かがカルタータのことを知りたがっている。子供たちはただお手伝いをしにきただけ。そう結論づけたのだ。
「お前たちを拘束する任務。敵対すれば怪我をさせてもいい」
合っていたらしく、子供はすらすらと返答をする。
「敵対しないわ。私は何をされても大丈夫だから、皆を助けてくれないかしら?」
目の前までやってきた子供にお願いをする。子供が小さく頷きナイフをしまうのをみて再度安堵したところで、それはきた。
「抵抗するかどうか見極める」
その返答がマーサの言葉への肯定なのかどうか、マーサには分からなかった。見極めるとは何をするつもりなのか理解が及ばぬままに、当然近づいてきた子供を思わず屈んで抱き止めようとした。
そこで、子供の白い手がマーサの首に掛かった。
「あ、う……」
驚いた声はすぐに萎んでしまった。滲む視界に首を絞められていると理解する。意識が途絶えそうになる。急いで子供の手をはね除けなくては、苦しさに耐えられない。意外なほどがっつりと掴まれて、とても痛いのだ。息ができなくて、どうにかなってしまいそうだった。
はねのけようとした手を、そこで無理に下ろした。手の力を抜き、されるがままに。爪の一本もたてることはしなかった。
愚かだと罵られる自覚はあった。けれど、それが約束だ。自分は何をされてもよいと、子供に話した。そこに、嘘はあってはならない。見極めると子供は言ったのだ。その期待には答えなくてはならない。これ以上誰かの期待を損なうことを、マーサは絶対にしたくなかったのだ。
故に、幾ら苦しかろうとも、絶対に抵抗しない。それには、相当の意思の力を要した。苦しさや痛みに耐えることよりも、自分の生存本能に抗うことのほうがずっと難しい。零れる涙に、滲む視界に、息苦しさに、頭がおかしくなりそうだ。明滅する世界が壊れていく。意思と本能とがない交ぜになり、まるで地獄の炎に焼かれているかのような苦痛を味わう。
ふっと、意識が遠のきそうになる直前、呆れたような声が聞こえた気がした。きっと、走馬燈だろう。もうここにはいない人の声だ。
「お前さんは本当に馬鹿だなぁ」
黒い帽子を深々とかぶったその人が、笑っている。いつも周りに大きな影響を与えてくれた、皆の太陽のような人だ。マーサは、彼の特別でいられることが嬉しかった。
髪を手ですかれるから、その手を握りしめようとする。そこに、続きの声が掛かる。
「そして、とても頭が良い。俺の伴侶にもってこいだ」
誇らしい声だから、あの人の子供を育てられなかったことが心苦しかった。
「ライゼルって誰?」
振りかかる声に、返事をする余裕はなかった。突然手放された感覚とともに、ゴホゴホとむせる。落ち着いてから涙を拭き取り、辛うじて見上げると、小首を傾げる子供の姿がある。
「大事な、人」
そう答えたつもりだったが、声になったかは分からなかった。背後から衝撃がくる。子供たちが結局何を見極めたのかもよく分からないままに、マーサは意識を手放した。




