その626 『見たくない』
途端、目の前に刹那の姿が映る。ぽかっという音と同時に頭を再度殴られる。
「痛いんだけど」
「正気、戻った」
驚いたように瞬きしているところを見るに、嘘くさい。この機会にイユを意図的に殴ろうとしていないだろうか。
「『心喰い』はそうそういないという話じゃなかったの」
イユはすぐに刹那に文句を言った。散々夢を見せられて、不愉快なのだ。
「森の入り口より前にいたのは、運が悪い」
さらりと刹那に告げられて、イユは嘆息した。その言葉でどこからが夢だったのか察しがついたからだ。
「まさか散々歩いたつもりだったのに入り口さえ入ってないなんてね」
イユの視界の先で、複数の鳥籠が風に揺られている。葉のない枝はもの寂しく、イユを迎えていた。
一方イユのいる場所は枯れてこそいるものの、木々にはまだ葉が残っている。
間違いない。殆ど全てが夢だったのだ。
「といいつつ、これさえも夢ってことはないわよね?」
ひやりとしながら自問自答する。それを聞いた刹那から返答がある。
「痛かったなら、正気」
「私の異能は痛覚ぐらい表現するわよ」
「それなら、私からみて正気に見えるから平気」
刹那なりに知恵を絞ったのだろうが、刹那からイユがどう見えようがイユが夢を見ているかどうかの判断にはならないだろう。時折抜けているのは式神だからだろうか。呆れて否定する気にもならなかった。
「そういえば、レパードは、って……」
イユはそこで、今までじっと静かにしていたレパードの顔色が悪いのに気が付いた。
「レパード?」
まだ悪夢のなかにいるのかと疑ったが、そうではないらしい。
「いや、ちょっとな」
「何を見たのよ」
原因が夢なのはすぐに分かる。
「別に大したことじゃない」
「嘘ね。気になるから言いなさい」
イユは自分の夢の話を共有する。それで公正に聞き出そうとしたわけだ。
なかなか引き下がらないこともあってか、レパードはようやく折れた。
「あいつらが死んでる光景は、中々きたって話だ」
よほど酷い光景だったのだろう。それだけ伝えるので精一杯の様子だ。
「『心喰い』は倒してある。夢からも醒めた。休憩したら行く?」
刹那に問いかけられ、イユは頷いた。それからたまらず聞く。
「その、手に持っている兎みたいなのが、『心喰い』?」
刹那に耳を掴まれてぶらぶら揺られているのが、気になってしかたがなかったのだ。目に光がなく、首にハートのネックレスをつけているようにもみえる独特の体毛。兎にしては一回り大きいが、魔物と呼ぶには可愛げがあった。だからこそ、これがイユの記憶から夢を作り上げて心を喰らおうとしていたと思うと複雑だ。おまけに刹那は肯定とともに付け足したのだ。
「うん、美味」
そういわれてもさすがに食べる気にはなれなかった。
森は深い霧のなかにある。
進むイユたちは、何度も互いに声を掛け合う。そうしないと、はぐれてしまうことは自明だ。
夢と変わらない霧のせいで、不安な気持ちに駆られる。歩いた先にいつまた、ぼろぼろの姿のリーサが現れるとも知れない。そう思うと、先に進むのが怖かった。
「イユたち、ペース落ちてる。休憩する?」
前方からそう聞こえ、叫び返す。
「不要よ!」
こんなところで休憩するほうが逆に怖い。速度が落ちているのは決して身体が疲れているからではないのだ。
「待て、何かいるぞ」
レパードの警告に近しい声に、イユは身を強ばらせる。傷だらけのリーサや仲間だったらどうしようと思う一方、『霧すがた』などの魔物の可能性も消せない。
「怯えてる暇なんてないわよ」
小さく呟くことで自身に喝をいれたイユは、ゆっくりとレパードのいるほうへと赴いた。
霧のなかからレパードの後ろ姿がはっきりと現れる。驚いたように身体を強ばらせ、イユのほうを向き直ろうとしたのを捉えた。
「しっ、私よ」
と、声を掛ける。
レパードは声にはしないものの安堵した様子で、向き直った。
「あそこだ」
何か黒いものがぼんやりと見えた。初めは、壊れた鳥籠だと思った。ぐしゃりと壊れ積み重なったそれが、不気味に転がっているものと。
違うと気がついたのは、霧がうっすらと晴れて人型を作ったからだ。目を凝らして、それが倒れている人間だと気づく。それどころか、その姿に見覚えがある。
動悸がした。これは、夢の続きだろうか。それとも現実だろうか。どちらにしても、嫌だった。
「クロヒゲ!」
名を呼んだイユに、レパードがすぐさま走り出していった。霧に溶け込んだレパードの姿を追うように、刹那が続いていく。
イユは一番最後だった。異能で誰よりも早く走れるのにもかかわらず、この中で最初に気づいたにも関わらず、動き出せなかった。
見たくないという、現実逃避に近い思考がイユの足に枷をはめている。それを誰より自分自身が認めたくなくて、声だけは精一杯虚勢を張った。
「ちょっと、大丈夫なの!」
くるりと刹那が振り返る。レパードは倒れているクロヒゲを揺さぶっているだけだ。
クロヒゲはうつ伏せで倒れていた。所々生々しい傷痕が垣間見える。生きているのかはまだ分からない。
刹那が事実を淡々と告げた。
「『亡骸烏』、齧った」
生々しい発言は止めてほしい。夢の中のリーサを思い出してしまう。
「でも、生きてる」
続けて吐かれた言葉に、深々とため息が出掛けた。そこで、まだ終わっていないことに気がつく。
「治りそうなの?」
こくりと、刹那は頷いた。
「傷は残るかもしれないけれど、治せる」
休ませるから手を貸してくれと頼まれた。断る理由は到底ない。刹那に言われるがままに手を動かしながら、イユは気を失っているクロヒゲを見下ろす。酷い状態であるからこそ、疑問を口にしたくなる。
「でも、どうしてここにクロヒゲが」
クロヒゲはカルタータ出身者ではないのだ。レンドが追いかけた、抗輝のほうにいると思っていた。
「副船長。情報持ってる」
単純明快に刹那が答える。その刹那の手は先ほどから動きっぱなしだ。
イユは納得する。確かに、レパードが不在な船を預かっていたのはクロヒゲだ。リーダー格であれば情報を持っていると考えるのは分かる。
だが、刹那がいたのだ。クロヒゲがカルタータ出身者でないことは当然知っていたはずだ。それとも、イユが知らないだけで副船長ともなればカルタータの事情にも詳しいのだろうか。




