その625 『望まれていなくとも』
「リーサ」
これは、幻だ。そうに決まっている。
そう考えたイユの胸中は複雑だった。主に二つの思考が支配し、入り混じっていた。
一つは、『心喰い』の見せる夢が続いているのだろうというどこか達観した理性だった。どれほど衝撃的な映像を見せられようともたじろいではいけないとそう自分に言い聞かせた。
もう一つは、現実への否定があった。認めてしまったら、イユの願いは叶わなくなる。リーサは元気な姿でイユの前に現れると、そう信じていたかった。傷だらけのミンドールを見た後でも、おかしくなってしまったレヴァスを見た後でも、頼りない願いだと思いながら信じていたかったのだ。
実際にはリーサの姿はぼろぼろで、生きているのも不思議なほどだった。
普段から身に着けていた前掛けもなく、破られた服の隙間の数々から傷が覗いている。極めつけは肩に『亡骸烏』が乗っていたことだった。その烏がリーサの頬をつねるようにして摘まむから、止めたくなる。
「ずっと待ってたわ、イユ……」
切望の声がイユの胸を抉った。
「遅かったわね」
同時にそう言われて、頭の芯が冷え切った。これは夢だと理解したのだ。リーサがそうした批難の視線を向けるとは思えない。それは克望がみせる式神の真似と何も変わらない。
「リーサ」
むしろ今のイユならば、リーサと思われた目の前の少女の形をしたそれに、憎しみの目すら向けられる。
「なんてね」
そのイユの目に、リーサの朗らかな笑みが映った。それは『亡骸烏』にかじられながらだから、ひどく歪な不気味すぎる笑みだった。だからこそ、抉られる心地がした。
「助けが来るなんて、思ってもいなかったわ」
その返しが、イユには意外に映った。途端に偽者だと断定したはずのリーサの姿が曇ってしまった。イユの知っていたはずのリーサの姿が思い起こせない。
「え?」
呆けたように返してしまった時点で、イユの意識は完全に今のリーサに移っている。それを目の前のリーサは分かっているのかいないのか、いつもの口調で続ける。
「だってイユは、私たちとはほんの短い間しか一緒にいなかったのよ? こうして命がけで助けに来るはずなんてないわよね」
どきりとしてしまった。極めつけにリーサはにこりと笑いながら告げるのだ。
「そう、そんなことまではさすがに望めないわ。イユに悪いもの」
手が震えたのを隠せなかった。
イユは心のなかで気がついていた。リーサとは友達で、セーレの皆はイユにとっては手放したくない存在だ。空っぽになっていたイユに、ヒトらしさを与えてくれた場所なのだ。
けれど、それはあくまでイユにとっては、だ。
心のなかでは、いつもどこかで拒絶されたらどうしようと思っている。イユにとってのセーレの存在は大きいけれど、皆は別にそうじゃない。思いは等価ではないのだ。
「ねぇ、イユはどうしてそんなに私たちのために頑張ってくれるの?」
「リーサは友達だから」
返した言葉は殆ど反射だった。
「私もそうよ。友達だから、十二年前のことを話したしブライトさんの暗示を解こうとした。でも、イユがそこまでする必要はないわよ? 命をかけてもらっても割に合わないでしょ?」
何を言っているのだろう。理解できずにいるなら、振り払うべきだった。リーサはイユにこんなことは言わないはずだ。これは夢なのだから、振り払ってよいのだ。それなのに、手が動かない。
「だってイユ、ぼろぼろよ? そんなに傷ついてまで友達なんてやらなくていいわよ。もっと他にも目をやって」
慈愛さえこもった目を向けられて、言葉に詰まる。
「元々ギルドの人たちは、好きなときに所属するギルドを止めているわ。そう、レンドさんたちも前はスナメリにいたわけだし、皆転々とするのが普通なのよ。セーレに固執する必要なんて全くないわよ」
普通の人ならばそうだろう。けれど、イユは『異能者』だ。そう簡単には転々とできない。にもかかわらず、イユには偶然セーレと巡り合う機会があった。それを手放したくないのだ。
「でもそれは、ただの偶然よ。あなたがどう思おうとも、相手もそうだとは限らないわ。そして、あなたは手放されたくないと思っている。そうでしょう?」
優しかったリーサの雰囲気が豹変する。イユの心の内を読み当てるように、試すような口調で詰め寄られる。
そのうえ、イユの手を掴まれる。そのリーサの手の力に顔が歪みそうになる。夢なのだから、イユは自分の異能で痛覚さえ再現できてしまう。考えないように逃げるしかなかった。
「あなた、本当は弱いのよ。たった一人なのが恐いだけ。生き続ける理由を抱えていたいだけ」
リーサの手を振り払って、必死に逃げる。森の中へと逃げ込んでいく。それなのに、声は聞こえてくるのだ。
「だって、あなたを生かしてくれていたはずの暗示を浅はかにも自分から解いてしまったのよ? 『誇りに思える自分になれ』っていってくれた実の親を、あろうことかあんな風に殺してしまったのよ? 生きる理由なんてなかったのよね? ただ偶然転がってきたそれを手に取っただけ」
一体誰と話しているのかさえイユには分からなくなった。
「あなた、本当はセーレのことも友達のこともどうでもよいのよ」
その言葉に、イユの足が止まった。
「ただの偶然なのだから、本当は別の人間でも良かったの。ただ、友達ごっこをしているだけ。あなたの生きる理由を作るためだけに」
振り返ったイユの目に、リーサの姿が映る。逃げたはずなのにリーサは変わらずそこにいて、笑っていた。片目が既になく、頬も削り取られているその表情は、今後の夢にも出てきそうな程だ。
「そんなの、私たちへの冒涜だわ」
果たしてそうなのだろうかと、自身に問いかける。
「一つだけあなたに言えるのは」
先にそれだけ告げたイユは、乾いた唇を意識して舐めた。
「『心喰い』って意外と大したことないってことよ」
イユは思いっきり『亡骸烏』ごとリーサに回し蹴りを入れる。見事に吹き飛んだリーサは、木々にぶつかって苦痛の顔をみせた。
「なんで」
その呟きはリーサから発せられたものだが、『心喰い』の声そのものだったのかもしれない。
「簡単なことよ」
冷ややかにリーサを見下ろしたイユは宣言する。
「私という人間は、最初から身勝手ということだけ」
髪を耳に掛ける余裕すらあった。
「冒涜? そんなの、私には関係ないわ。私がただリーサたちを助けたいって勝手に思っているだけよ。それでリーサたちが巻き込まれたのだとしても、どうでもいいの」
「酷いわ」
と、目の前のリーサが口を動かすが、イユには関係のない話である。
きっと魔物は過去に似たような人間の記憶でも覗いて、学習したのだろう。だから、こうして弱みにつけこもうとしてきたと、そう推測することさえできた。
けれど、イユはこんなことで負い目を感じるほどできた人間ではない。
「まるで疫病神ね。好きになった人たちに災厄を撒き散らす」
リーサの姿をしたそれは、例としてイユの母や施設で出会った女、子供たちにセーレの皆を上げる。人の記憶や心を読んで利用してくるのが、この魔物の手口なのだ。
「疫病神でも何でもなってあげるわ」
だからこそ、イユは断言できた。
「あなたが、友達のことなんてどうでもいいって言ったから、頭が冷えたわ。私、そんなこと思っていないの。偶然でも何でも捕まえたものは手放せないわ。強欲なまでに、自分の思いに忠実になってやる」
そうして、イユはリーサの肩へと踏みつける。
「さぁ、無駄と分かったら私を夢から出すことね!」
次の瞬間、図ったかのように衝撃があった。




