その624 『混濁』
「ここが……」
「そう、鳥籠の森」
案内された鳥籠の森は、イユの想像を裏切るほどの死の匂いに満ちていた。何より今までの森と違い、木々に葉がない。代わりに揺れている鳥籠がどこか不気味である。
「ここが徐々に広がっている?」
イユが今いる場所は、鳥籠の森のほんの入り口だ。そこだけは唯一木々に葉が残っている。けれど、幹は今にも枯れそうで葉もかりかりに枯れている。森が広がるというよりは、周囲の森を枯らしているようである。
異能を使えるイユでさえ思わず足を止めたくなるほどの、しんみりとした空気。そこに最初に抵抗なく踏み入ったのは刹那だ。
「早く行く」
急かさせ、イユとレパードも歩き始める。
「急に霧が出ることがあるから、離れないように」
刹那の忠告に頷いた。イユにはどちらがよいか分からなかった。枯れきった森の鳥籠の揺れる様子を眺めていたいのか、霧のなか浮かび上がる青い光を見ていたいのか。
そこまで想像して、首を横に振る。どちらもごめんだ。
「刹那のいう真ん中まではどれぐらいなの?」
そう尋ねた途端のことだ。急にどこからともなく霧がやってきて、イユたちをすっかりくるんでしまった。
「刹那?」
心細さを振り払い、警戒しつつ声を張る。気を付けないと『霧すがた』の目を見てしまう。
「刹那、聞こえる? レパードも」
返事がない。そのことに不安が込み上げる。じわじわと危険が迫ってくるような気配がした。
まだほんの入り口だ。それなのに、早速はぐれてしまったのだと意識する。
「刹那?」
何度も声に出して、森を掻き分ける。こうなっては仕方がない。霧が深すぎて周りがよく見えないが、歩く他にない。何せ、霧は止む気配がない。イユをすっぽりと包んで逃がさない。
「せつ……」
言いかけて、慌てて口を塞ぐ。
目の前にぼんやりと青い光が見えたのだ。『霧すがた』だと認識したイユはそっと距離を取った。このまま一人でいるところを遭遇してしまうと、さすがのイユも命はない。
改めてなんと危険なところにセーレの仲間を連れていったのだろうと、苛々する。頼むから魔物に襲われて死にかけている仲間を見ることはしたくない。
そう願ったそのとき、足元で枝を踏む音がした。なんてことはない。ここは森だ。そう思ったけれども、自然と足に目がいく。
その瞬間、ひゅんと何かの音がして、イユの頭上を飛んでいった。
「何?」
慌てて距離を取ったから助かった。今までイユがいたところに、ナイフが突き刺さっている。どこかから投擲されたものだとすぐに分かった。
ひやりとイユの額から汗が溢れ落ちる。冗談ではないと声に出したくなる。これは普段から刹那が投げているナイフだ。
ここにきて、刹那頼りの場所で刹那に襲われるなど――――
「くっ!」
続けて飛んでくるナイフを、寸前のところで身体を捻ってかわす。
「ちょっとどういうつもりよ!」
思い出したのは、『心喰い』は意のままに人間を操るといっていたあの情報だ。式神には効かないとばかり思っていたが、これは明らかにイユを狙っている。
尤も元々刹那が罠に嵌めるためにイユたちを鳥籠の森に案内した可能性もあった。あり得ない話ではない。刹那にとって大切なものは、克望だったはずだ。その克望の望み通り動いた結果が、イユたちを助けることだとは思えない。本当は、従順なふりをして克望を失うきっかけになったイユたちを襲おうとしていたのかもしれない。
それは、決してないこととは言えなかった。
「出てきなさい!」
叱咤の声に、しかし刹那は現れない。代わりに現れたのはナイフだ。続けざまに二点、イユの頬を削り取らんと飛んでくる。
寸前のところでかわしたイユは、しかし下がろうとしたところで幹に足を取られた。
足場は安定していないのだ。態勢を崩したイユに真っ直ぐにナイフが飛んでくる。
そこで見てしまった。
木々の合間、青い光がぼんやりと覗いている。それは『霧すがた』ではなく子供の目だった。刹那のくりくりとした目が確実にイユの心臓を狙っている。
「許さない」
たったそれだけの言葉に、イユはぎょっとした。そのせいで逃げるのに一拍遅れてしまう。
目の前のナイフがかわしきれずに、眉間へと――――――――
「ここが……」
「そう、鳥籠の森」
案内された鳥籠の森は、イユの想像を裏切るほどの死の匂いに満ちていた。何より今までの森と違い、木々に葉がない。代わりに揺れている鳥籠がどこか不気味である。
そのことを意識してから、イユはぎょっとして刹那と距離をとった。
「どうしたの?」
きょとんとされ、イユは自身の心臓がばくばくと鳴るのを聞く。
「い、今のって――――」
夢だったのだろうか。たった今、イユは刹那のナイフの投擲により死んだのだと思った。そのはずが、小首を傾げている刹那が目の前に立っている。当然のように、自分自身も無傷だ。
けれどもし、今のが夢だとするとイユたちは既に『心喰い』と出会っていることになる。つまり、この近くにいるはずなのだ。
「『心喰い』は?」
乾いた声で尋ねると、
「大丈夫だ」
とレパードから声が掛かった。
「そいつはもう、刹那がやっつけた」
その言葉が意外なようで、あり得ない話でもなかった。
「偶然入り口の近くにいた。危なかった」
刹那の解説にイユはほっと息をつく。今のが夢だと分かってしまえばもう何も怖くない。やたらと現実味のある夢だったから動揺してしまったが、それこそが相手の思惑だったのだ。平常心でいようと努めて表情に気を付ける。
「それなら、先に進みましょう」
そう発言したそのとき、足元で枝を踏む音がした。なんてことはない。ここは森だ。そう思ったけれども、自然と足に目がいく。
「イユ」
そこで、名を呼ばれた。聞き覚えのある声だった。ずっと待ち望んでいた、友達であるリーサの声だ。
あるはずがないと、イユは混乱する。リーサたちが捕らえられているのは森の中ほどだ。こんな入り口にいるはずがない。
「イユ!」
再び呼ばれて顔を上げる。そこで、見てしまった。
身体中を傷だらけにした、ぼろぼろのリーサの姿を。




