その621 『ささやき』
「ねぇ、リーサ。あなたも、だっこしてみる?」
懐かしい声だ。優しくて、少しだけ強気な母の声。
「うん、いいの?」
「当たり前じゃない。あなたはお姉ちゃんになったのだから」
そう言ってリーサの両手に赤ん坊が渡される。どっしりとのし掛かる重さが、命そのもののようで、ぎゅっと抱きしめる。
「リーサはお姉ちゃんだから、この子の面倒をみてあげてね」
母の声がどこか遠い――――
「先生、できました」
気付くと、リーサは学校にいた。緑色の黒板に白いチョークで「できた人から退出」と書かれている。先生は真っ直ぐに線を引けない人だから、少しずつ文字が右上がりになっていた。
リーサは机の上の答案用紙に目をやる。鉛筆を握った手が自身の目に映っていた。答案はまだほぼ白紙だ。
かきかきと文字を書く音が、周囲から聞こえてくる。その音がリーサを急かすようだった。
加えて、席に着いているリーサの隣を、歩き抜ける気配がする。
再び黒板へと視線を向けたリーサの目に、翠色が飛び込んでくる。
先ほどの声は、リュイスのものだ。誰よりも先に席を立って、答案を提出に行く。
「あの子、本当に凄いよね。何でもできちゃって」
隣でそんな女子たちの会話が聞こえる。
「あそこまでできるといっそ清々しすぎて雲の上っていうか」
「あ、分かる。もう同じ人とは思えなぁい。リーサも、そう思うでしょ?」
振られたリーサはたじろいだ。
「えっ? あ、そうね」
「こら、ユイ。騒がしいぞ。テスト中に真面目にやっている生徒に声を掛けるんじゃない」
クスクス笑う声に反省の色は見られない。
「全く」
という先生の呆れた声がした。
書き込む音に紛れて、次から次へと生徒たちが席を立つ気配がする。普段は不真面目なヴァーナーもさらっと終わって教壇へ提出しにいく。続けて、レッサがおどおどとしながら抜けていき、ラビリがいそいそと席を立ち上がる。
ラビリは一番年上だから、リュイスも二つ上だから、手が届かなくても仕方がないのかもしれない。ヴァーナーは頭が良いから、レッサも集中力が凄いから、比べてもどうしようもないのかもしれない。
けれど、周りがどんどんいなくなって片手で数えられるぐらいになると、途端に心苦しくなる。目の前の答案は殆ど埋まってないのだ。まるで自分が駄目だと言われているみたいだった。
「リーサは真面目で良い子なんだけどなぁ」
時間切れになって答案を提出していると、そんな風に先生から声を掛けられる。
それがトゲみたいにリーサの心に刺さって、作り笑いもできなかった。泣かないように意識して学校を出る。目頭にぎゅっと力を込めれば涙が落ちないことを、これまでの経験で知っていた。
学校の外では、先ほどテスト中に声をかけてきた友達、ユイが他の人と一緒に楽しそうに話していた。相手は『龍族』の先輩のようだ。リーサの存在に気付かれたくなくて、自然と足が遅くなる。
「お、リーサ。ようやくきたね!」
声を掛けられてしまい、リーサは心のなかだけで断念した。
ユイはテスト中あれほど騒がしくしていたのに、自分よりずっと早くテストを終えてしまっていた。そして、まだ来ないリーサを待っていたのだろう。点数も自分より良いのだろうことは、見なくとも知っている。
「そんじゃ、帰ろうか」
大人しく頷いて何事もなかった顔をするけれど、心のなかではいつもびくびくと怯えていた。
「お母さん、ただいま」
「おかえりなさい、リーサ」
気付いたら、家の扉を開けていた。
「あら、どうしたの。浮かない顔ね」
すぐに表情を読まれてしまうのは、母が鋭いせいだろう。
「お母さん、お家のお手伝いしたい」
何もできないから、せめて家のことぐらいは手伝えるようになりたかった。
「まぁ、ありがとう。リーサは優しいのね」
そう言って誉めてくれるから、そのときだけは嫌なことを忘れられた。
「リーサが手伝ってくれるなら、余裕ができるわ。お父さんが帰ってきたら、御馳走にしましょうか」
そうやって突っ込まないでいてくれるから、リーサは家族が好きだった。
「ごめんね」
手のなかにある命の音が弱々しい。
「面倒をみられなくて」
何もできなかった。怖い大人たちが、リーサの好きなものを全て奪った。家族に友達。全部、一瞬のうちに消えた。
ユイはあの日、一緒に船を見に行ったとき、誰よりも先に炎に焼かれてしまった。
母も父も、手のなかにあるはずだった命も、全て目の前で潰されてしまった。
圧倒的な暴力は、些細なリーサの自負など吹き飛ばしてしまう。
気付いたら、目の前は真っ暗だ。
そう自覚した途端に、ふわっと落ちていく感覚がした。どうにもならない暗闇のなかを、意味も分からず落ちていく。ぐるぐると回るように落ちていく感覚は、或いは地獄に突き落とされているかのようでもある。どうにもできずに泣き叫びたくなった。
そんななかで、声が聞こえた。
――開けないの?
唐突な言葉に、理解が及ばない。
「え?」
代わりに、目の前が急に白いもやに包まれる。そうして気付くと、リーサはいつの間にか鳥籠の中にいた。
――助けられなくなっちゃうよ?
聞いたことのない声だった。声なのかも、正直分からなかった。それはどちらかというと、誰かと直接話すのではなく、心のなかに響くような感覚だった。
だから、いつもであればその声にまず動揺していたはずだ。
リーサがそれどころではなかったのは、目の前にヴァーナーが転がっていたからだ。
「ヴァーナー?」
駆けつけたリーサは、ヴァーナーをさすろうとしてぎょっとする。
「どうしよう」
自身が青ざめていることが分かる。目の前にいるのは、意識を失いぴくりともしない黒髪の少年。その腹の怪我は酷く、包帯を巻いても血が滲んでいた。
「やっぱり私には何も出来ない」
傷が開いてしまったのだろう。血がどんどん広がっていく。手で押さえようとするが、変わらない。ただただ、無力さに叩きのめされる。こうなってもどうしたら良いか分からないのだ。応急手当はセーレで学んでいたはずなのに、手当てのあとも衰弱していくのだから、もう手の施しようがない。苦しそうなヴァーナーを見るのはあまりに堪えた。
「ヴァーナー! しっかりして、ヴァーナー!」
泣きながら声を張るが、ヴァーナーは目を覚まさない。
――開けないの?
そのとき、再びの声がした。




