その620 『怖くて』
ぶるりと、リーサは震えた。頼りにしていた人が突然姿を消したのだ。何かあったと見るべきである。
知らず、リーサの口から懇願が溢れ落ちる。
「クロヒゲさん、どこ?」
「あぁ、ここでやす」
「きゃっ!」
突然近くで聞こえた声に、リーサは思わず悲鳴を上げる。慌てて手で自分の口を覆ってから、周囲を見回した。
鳥籠の外に、クロヒゲの姿があった。腰にロープが巻かれている。枝に身体を預けていた。
「クロヒゲさん!」
「クラッカー受け渡しの要領で行けるかと思いましたが、案外どうにかなりやすね」
この霧のなか、ロープを伝ってきたらしいことはわかった。
「その、自分で鳥籠を開けて……?」
クロヒゲは頷く。
「これでも、昔は……、あぁ、いや、鍵開けなんてものが得意だったものでして」
クロヒゲは失言したと思ったのか、ぽりぽりと自身の髭を搔いた。
「それより、思ったより酷そうでやすね」
ヴァーナーのことだ。
「そうなの。早く良くなって欲しいのだけれど」
「そのためにも早く見つけないとでやすね」
さらりと言われて、リーサは戸惑う。
「あの、見つけるって」
あくまで軽い言い方で、なんてことのないように返された。
「ちょっと様子をみにいってきやす。どうもここにはリーサ嬢ちゃんのいる鳥籠とジェイクの奴のいる鳥籠しかないようでして。それに、上手くいけば食べ物や薬草も手に入るかもでやすし」
リーサは信じられないものを見る思いで、ぎゅっと自身の手を握りしめる。ロープやクラッカーはあったとしても、武器の類は取り上げられているはずだ。無策で危険な外に出るのは、リーサには怖い。
「あの、ここは鳥籠の森だって……」
「知ってやす」
ヴァーナーが気づいたのだから、クロヒゲも当然気づいていた。そのうえで、出掛けるという。目的はヴァーナーを治療できるかもしれない医者、レヴァスだ。そしてここにはいない船員の仲間である。
「このままじゃ、じり貧でやす。動けるうちに動くのが良いと判断しやした。あぁ、そうだ。リーサ嬢ちゃん。大丈夫だとは思いやすが、何かあったときのためにこれを渡しておきやす」
鳥籠の向こう側からそっと渡されたのは、一本の細い針金だ。工具の類いならヴァーナーも持っていそうだが、それらより扱いやすいはずだとクロヒゲは告げる。リーサには分からないが何かが違うらしい。
「錠は外側についておりやすが、手を伸ばせば届くかと。てきとうにがちゃがちゃとやっていれば、素人でも簡単に開けられるタイプのものでやす。下手に開けると魔物が入ってくる危険がありやすから、どうしてもというときだけ使ってくだせぇ」
「ありがとう、クロヒゲさん……」
だが、これを渡すということは、クロヒゲはいざというときがあるかもしれないと考えているいうことだ。そのいざというときがどういうものなのかについて、リーサはあまり深く考えたくなかった。
「それじゃあ、いってきやす。あぁ、リーサ嬢ちゃんは心配せずお待ちくだせぇ」
クロヒゲはそう言って、ロープを近くの枝へ縛りはじめる。縛り終わったらすぐにでもいってしまいそうだったので、慌てて引き留めた。
「そうだわ。いただいたクラッカー、ジェイクさんがいるみたいだから、その……」
クロヒゲは手だけで合図する。
「構いやせん。それはお二人で召し上がってくだせぇ。別に持っているんで、そっちを渡しやす」
引き留める言葉は、他に持っていなかった。リーサは無意識に伸ばしていた手をそっと下ろす。
まさか我が儘を言うことはできまい。怖いから一緒にいてほしいなどと、そんなことを言ってしまったら、さすがのクロヒゲも呆れ返ることだろう。
だから、リーサは何も言えなかった。ただ見送るしかなかったのだ。
クロヒゲの姿は、濃霧に紛れてすぐに見えなくなった。
そして、どれほど待とうとも、クロヒゲは一向に帰ってこなかった。
リーサは通りすぎていく風にぎゅっと身体を縮めた。
一体、クロヒゲたちが出ていってから、何時間が経ったのだろう。夜空に星が瞬いているのがうっすらと分かるときがあれば、濃霧のせいで全く様子が分からないときもあるせいで、何日過ぎたか分からない。
とうにクラッカーは尽きてしまった。耐えきれずにかじったら逆に胃が刺激されてしまう。だからこそ、なるべく食べる時間を減らすことを意識していたのに、なくなるのはあっという間だ。
加えて怪我をしていたヴァーナーの意識は、時々戻ることがあるものの、どんどん虚ろになっていく。特にクラッカーが尽きてからみるみる体力が落ちていくようで、見ているリーサが辛かった。
「ヴァーナー。私、どうすればいいの?」
今もこうして語りかけるが、返事はない。段々ヴァーナーが冷たくなっていくようで怖い。塗り薬をもらっても、このような環境でいてはちっとも効果はない。せめて暖かい場所が必要だ。
合わせて、眼下のジェイクのことも気がかりだった。あれから何回か声を掛けているものの、やはり返事はないのだ。ジェイクもクロヒゲからクラッカーを譲り受けているはずで、加えて時折お菓子の類を服に忍ばせているタチである。少なくとも飢えることはないだろうと、そう思い込むしかなかった。
それに、クロヒゲたちはおろかリーサを閉じ込めた子供たちすら、いまだに姿が見えない。そろそろ水も尽きてしまうのだ。このままでは飢え死にだ。何よりヴァーナーを助けられない。怖かったはずの子供たちだが、今では来てほしいと望んでしまうほど、苦しかった。
だからこそ、このままここにいてはいけないとも思うが、リーサにはどうしてももらった針金で鍵をあける勇気が湧かなかった。森のなかから蠢く不気味な何かが狙っていると思うと、怖くて手が震えてしまうのだ。
何度目かになるからこそ、自分自身にげんなりする。迷いながらも、結局リーサはいつも前に進めずただ朽ちるのを待つだけなのだ。必ずといっていいほど、立ち向かうことはできない。
「でも私、わからない。イユみたいに強くないし、ヴァーナーみたいに賢くもない」
もし今ここにいるのがイユなら、鳥籠を壊して外に出たはずだ。もしヴァーナーが元気なら頭を使って安全に外に出る手はずを考えただろう。リーサにはそのどちらもできない。せいぜい、少しだけコップにたまった雨水を、ヴァーナーの額にあてるぐらいのことだ。
「なんて無力なの」
そんなことをうんうんと考えていたせいだろうか。嫌な夢をみた。




