その619 『一人にしないで』
誰かに呼ばれた気がして、目を開ける。
目の前は、昨日以上に深い濃霧。一寸先も見えないそこで、冷え切った身体を抱えるようにしてじっとしていることしか、今のリーサにはできなかった。
空腹を感じているが、食べ物はない。鳥籠の中にあるのは水筒だけだ。手を伸ばし、水筒を手に取る。飲みたかったが、止めておいた。無計画に飲めば、水が尽きる可能性がある。いつ子供たちがやってくるか分からないからこそ、無駄な消費はすべきではない。代わりにヴァーナーへと振り返る。熱のあるヴァーナーにこそ水を飲ませたいところだが、意識はまだ戻っていない様子だ。
リーサは水筒を元の場所に戻すと、外を見渡した。黒い格子の合間、葉をつけていない枝からぶら下がる複数の鳥籠が揺れている。ぎぃぎぃと響く音は、相変わらず物寂しい。
いつまで、ここにいればよいのだろう。
あの子供は待つように言っていた。つまり、いつかは迎えがやってくるということだ。今のリーサたちは逃げられないように牢に入れられているようなものだろうとは、理解していた。
とはいえ、食べ物を置いていかないあたり、すぐに迎えにくるものかと考えていたのだ。まさかここまで時間が経っても音沙汰なしとは思わなかった。今更ながら先の考えは願望に過ぎなかったのだと、自覚する。確かに、どこか人らしさのない子供の行動だ。水さえ与えておけばよいと判断された可能性もある。
それにもし子供の迎えがきたら、助かるとは言えない。むしろこの危険な森を牢として扱う人間のすることだ。もっと恐ろしい目に遭うかもしれない。そう思うと、身体が震えた。
「逃げないといけないとは思うのだけれど……」
ヴァーナーを連れて、この危険な森を抜けるのは難しい。それが分かっているから、何もできない。
否、一人だったらもっと気が動転してしまって、鳥籠の中で縮こまっていただろう。こうして物事が考えられるのはヴァーナーがいてくれるからだ。
「聞こえやすか?」
ふいに、聞き慣れた声がして、はっとした。声は、上から聞こえたのだ。
「クロヒゲさん?」
リーサの問いに答えるように、見上げた先、複数の鳥籠の合間で何かが動いた。風で揺れる鳥籠をじっと待って見つめていれば、ようやく見知った姿が目に入る。
「良かった。怪我はなさそうでやすね」
同じように鳥籠に入れられている仲間がいたのだと気づき、リーサの瞳は期待に揺れる。リーサ一人ではどうにもならなくても頼もしい大人たちがいれば話は別だ。
「私は平気だけれど、ヴァーナーが酷いの! 背中を刺されて、今も熱で苦しそうで……」
一所懸命声を張るリーサに、
「そうでやすか」
とクロヒゲは声の調子を落とす。
「早いところ医者に診せたいところでありやすが、レヴァスの奴はこの辺りにいないようで。リーサ嬢ちゃん。嬢ちゃんの位置から見て、レヴァスは見つかりやすか?」
どうして思いつかなかったのだろう。仲間がいるのなら、レヴァスも近くにいる可能性がある。リーサはすぐにクロヒゲからは死角になってみえない位置にある鳥籠を覗いた。
眼下で鳥籠が揺れているのが見える。リーサが入っているものよりも遥かに小さな鳥籠だ。そこは空っぽである、――そもそも人一人入れるかも怪しい――、ことは一目瞭然だ。
更にその先、地面すれすれの場所にも鳥籠があることに気が付いた。手前の鳥籠に隠されているせいで中の様子が確認しにくい。
だが、風に揺られたタイミングで見つけた。確かにそこに、ぽつんと小さな人影があったのだ。
あれは一体誰だろう。
じっと目を凝らして、影を確認しようとする。記憶のなかにある髪型と髪色とを一致させて確信した。あれは、ジェイクだ。
「ジェイク! 聞こえる?」
精一杯声を張る。
ところが、リーサの声が聞こえないのか、何回叫んでも反応はない。高さ自体はそこまでないはずなのだが、リーサの声まで深い霧に吸いとられてしまっているかのようだ。
「クロヒゲさん、レヴァスさんはいないみたい。私の位置からはジェイクが見えます」
諦めたリーサは、代わりにすぐ上にいるクロヒゲにそう答えた。
「そうでやすか。ありがとうございやす」
クロヒゲがいると分かっただけで、リーサはだいぶ安心できた。それどころか、クロヒゲは食料を持っていたのだ。
「幸い服に食べ物を入れ込んでおいたもので」
普段から長時間航海室にいるだけはあって、よく簡易な食べ物の類いを持ち込んでいることは知っていた。今回はそれが良かったのだろう。
ちなみに、残念ながらヴァーナーは持ち込んでいなかった。むしろ食べ物を受け取りに食堂にきていたところを襲われたわけなので、当然と言えば当然だ。
「とりあえず、食べ物を分けやす。今から送りやすから受け取って下せぇ」
「けれど、そんなことをしたらクロヒゲさんの分が」
「あいにく、リーサ嬢ちゃんたちが飢えるのをみながら食べ物を食せるほど、図太くはないでやすから」
食べないときは自分も一緒だと言いたいらしい。相変わらず他人思いの副船長だと、リーサは胸が熱くなる。
「けれど、どうやってここから食べ物を……」
クロヒゲが入れられているであろう鳥籠からリーサのいる鳥籠までは、それなりの高さがある。
「そこはお任せくだせえ。何回かやって上手くいったら儲けものぐらいなので、時間は掛かりやすが」
どうするのかと思ったら、ロープが鳥籠から垂れてきた。上手くいったらと言っていたが、的確な位置に落ちてくる。早速ロープを受け取ったリーサは、クロヒゲの指示に従って、鳥籠に巻きつける。やがて、するすると音を立てて、黒財布が滑り落ちてきた。財布の紐を輪状に縛ってロープを通したようだ。
財布の中には、わずかではあったがクラッカーが入っている。
「クロヒゲさん、ありがとう!」
リーサは見ていないけれど分かった。服に入れられる食べ物など、僅かな量のはずだ。クロヒゲは殆どの食料をリーサたちに渡しているはずである。
「ジェイクにも渡したいところだけど……」
リーサにはロープがない。クロヒゲもこれ以上予備は持っていないらしい。そして、あったとしても合間にある鳥籠が邪魔である。クロヒゲほど上手く垂らせる自信はなかった。
一口だけクラッカーを齧ったリーサは、ぽつぽつと雨が降ってくるのに気がついた。
これ以上、体温を持っていかれるのはよろしくない。せめてヴァーナーだけは温めないといけない。
「クロヒゲさん、布の類は持っていないかしら。このまま冷やすとヴァーナーが」
ところが、クロヒゲから返事がない。
見上げたリーサは目を凝らした。先ほどまでいたはずだが、姿が見えない。霧が雨と同時に一気に深くなって、人の姿どころか鳥籠さえ見えなくしてしまったのだ。
「クロヒゲさん……?」
急に、リーサは不安になった。先ほどまでいたはずの人の返事がないのがこれほど心細いことだとは知らなかった。きゅっと身を竦めたリーサはなるべくヴァーナーに寄り添うようにして固まる。
霧はリーサのいる鳥籠にも入ってくる。すぐ隣のヴァーナーの様子さえ見えない有り様だ。風切り峡谷の霧と違い、肌がぴりぴりとする不気味な霧だった。通りすぎるまで、辛抱強く待ち続けるしかない。
次に霧が晴れたとき、見上げた先の鳥籠にクロヒゲの姿は見つからなかった。




