その617 『見えない世界で』
どこかへ運ばれていると気付いたのは、耳が音を拾ったからだ。何の音かは分からなかったが、時折揺られることからきっと飛行船に乗って空を飛んでいるのだろうと想像する。そう思うと、羽を動かすときの風を切る音に似ている気がした。
また口に水を流し込まれた後、ぼんやりと意識を手放す。そうした繰り返しのなかで、あるときどこかへ運ばれたことがあった。言うことのきかない身体がだらりと持ち上げられる感覚のあと、背中に手の感触を感じ続ける。やがて冷たい床に寝かされた。そこには誰かがいたようで、息遣いが聞こえてくる。
「誰?」
そう声に出せたら良かったが、言葉になることはなかった。
けれど、リーサを運んだ誰かにはリーサが口を動かしたことが伝わったらしい。頬を布のようなもので拭かれながら、呟かれる。
「回復した?」
もう聞き間違いようがなかった。この声は紛れもなく刹那のものだ。
「どうして刹那がこんなところにいるの?」
そう聞こうとしたが、声は紡げない。頭のなかが混乱するのを感じる。
刹那がここにいる理由が分からない。今ここで縛られた状態のリーサを運んでいるということは、セーレを襲ったのも刹那の可能性が高いということになる。ヴァーナーを刺したのは、やはり刹那なのだろう。
けれど、刹那がセーレに戻ってきて皆を襲うなんておかしい。それに子供は複数人いた。刹那が前にいたというギルドの仲間なのだろうか。前のギルドは壊滅したと聞いていたが、違ったのか。
そもそもリーサにはあの刹那が仲間を襲うなんてことが、受け入れがたい。何かの間違いかもしれないとそう思おうとした。
刹那とそっくりの誰かに襲われただけで、きっと刹那本人ではないのだ。或いは、紛れもなく刹那だとしたら、誰かに弱みを握られてそうせざるをえない状況に陥ったのかもしれない。後者だとすると、シェイレスタの都で何かがあったことになる。
そんなことを考えていたから、連れられる先はシェイレスタの都だと思っていた。
しかしそれにしてはあまりにも時間が掛かっている。それどころか、寒さや暑さがなくなってきた。
訳の分からないままに、時間が経過していく。頭はしっかりしてきたものの意識が混濁することもあり、今が朝なのか夜なのかすら分からないでいる。
飲まされるものも今までの水から薬と思われる液体にかわり、身体の痛みを感じるようになった。ずっと縛られていたのに何ともないわけがなかったから、元気が戻って痛みを感じる余裕が出てきたのだろうことは薄々と感じていた。
けれど、全快には程遠い。そうした時間が延々と過ぎていく。
それが唐突に終わったと気付いたのは、目隠しを急に外されたからだ。
「う……」
久しぶりの光が眩しい。室内だろう。大した明かりはないはずなのに、目がチカチカする。
リーサだけでなく周囲からも同じような呻き声が聞こえた。声の方を向きたかったが、まだ寝かされたままで動ける状態ではない。
「運んで」
刹那の指示する声が聞こえた。
リーサの身体が誰かに持ち上げられる。子供の手だ。黒い当て布が視界に入る。子供がリーサを見下ろしている。当て布の隙間から見覚えのある蒼い瞳が見えた。加えて白い肌に銀髪だ。刹那とこれ以上なく似ている。別人だとわかったのは刹那より幼いからだった。あどけない顔についたふっくらとした桃色の唇が開かれる。
「了解」
リーサは更に混乱した。その声は紛れもなく刹那のものだったからだ。
けれど、明らかに幼いから刹那本人ではないはずだ。冗談みたいな話だが、刹那がたくさんいるとしか思えなかった。
動けないまま運ばれるうちに、リーサは子供の背後の様子を目に入れる。映っていたのはほぼ天井だったが、そこに伝声管の一部を確認する。やはり、飛行船に乗っていたようだ。
そうなると、とうとう目的地に着いたということになるが、何故目隠しを解かれたのが今なのかは、よく分からないでいた。普通は目的地に着いてから外すものだろう。周囲の様子を把握されたら、脱走したときに経路を覚えられてしまうからだ。
しかしながら、リーサには効果的だった。様子が見えるからこそ、恐怖を煽る。何の感情も持たない目に見下ろされ、淡々と運ばれる不気味さは、まるでリーサが積み荷にでもなってしまったかのようだ。
恐怖に震えるリーサに経路を覚えるような余裕はない。いっそのこと目を閉じていたかった。それができないのは、見えていることで仲間の無事が確認できるかもしれないと考えてしまうからだ。結局どっちつかずのまま、恐怖に怯えて流されるしかない。
「確認すると、いい」
声を掛けられ、びくっとする。刹那に似た子供はリーサの顔を覗き、首だけで示した。
首を自由に動かしていいとも思っていなかったリーサは、おずおずと視線を子供の向ける方へとやる。
見えたのは窓だった。どんよりとした雲の下、そこに森が広がっていた。
そこは最初死に絶えた森のように見えた。青々とした色はそこになく、木々から枝だけが無数に延びている。そして不自然なほど多い鳥籠ががらんがらんと揺れている。
本能が告げた。あの場所は、死を呼んでいる。とても恐ろしい場所だと。
そしてリーサの瞳は、子供の意図を察して恐怖に揺れる。
わざわざこの森を上空から見せたのだ。森の広さと恐ろしさを知らしめたかったのだろう。つまり、この森がリーサたちの今後に関わってくる。
「あそこは、牢」
子供の言うことを真に理解したのは飛行船が着陸してからだ。なすすべもなく、一つの籠の中に入れられたリーサは既に震え上がっていた。
これならきっと、人身売買のほうが怖くなかった。その場合、連れられる先は恐らくは人のいる施設か建物だ。こんな人がいてはいけない場所ではない。待ち構えているのもきっと『魔術師』で、少なくとも人間だったはずだ。ここにいるのは、死を纏う何かだろう。それが分かる。
「籠の中にいる限りは死なない。魔物は招き入れない限り、中に入れない」
そんな説明をされながら、猿轡を外される。
「水筒は籠の中に一本置いておく。なくなっても補充はない」
本当は子供にいろいろと聞くべきだった。歯がカチカチと鳴っていて、満足に口も動かせない。
「順番が来たら、連れていく。それまで待つ」
「じゅ、順番って」
辛うじて出来た質問に、子供は首を捻る。
「順番が来たら、連れていく。それまで待つ」
まるで言葉を理解していないかのような反応に、言いようもない不安が募る。
「愚かなことをしないように」
子供に念押しするように告げられ、籠の扉を閉める音を聞く。鍵を閉めて出ていってしまったのだ。追いかけようとして、動けなかった。手足が自由になった感じはしていたのだが、長い間縛られていたせいだろう。縛るものがなくても満足に動けるほどにはなっていない。どうにか首だけは動かして鳥籠の外を見ようとしたときには、既に子供の姿は跡形もなかった。
葉のない枝が物寂しい。代わりに、ゆらりゆらりと鳥籠が風に揺られている。それがリーサの心の安定をかき乱す。一人になってしまったという実感が、鳥籠を揺らす風となって心にさざ波を立て続けているのだ。震えがどうしても止まらない。砂漠にいたせいで薄い服だったのもあるかもしれないが、心も体も既に冷え切ってしまって、取り乱しそうになっている。
だから、誰かのうめき声を聞いたとき、リーサはそれが救いに聞こえた。
「うぅ」
小さな声だったが、近くから聞こえたのは間違いない。声のする方へと中々動かない身体をゆっくりと時間を掛けて動かしていく。視界が見慣れた黒髪を捉えて、あっと声を挙げかけた。
もっと近づこうと身体を動かす。ようやく体全体をはっきりと視界に入れ切ったリーサは、掠れた声を振り絞った。
「ヴァーナー!」
一人ではなかった。同じ鳥籠のなかに入れられていたのだ。




