その603 『(番外)異能者(克望編3)』
はじめ、何が起きたか分からなかった。唯一分かったのは、衝撃だ。そして、妹の「兄ぃ」という声が聞こえた。いつの間にか閉じてしまった目を開けると、泣きそうな顔をした雪奈が覗き込んでいた。
「兄ぃ、痛い?」
聞かれた言葉に理解が及ばない。数秒そうしてから、克望は自分の手元がやけに寒々しいのに気が付いた。身体を起こそうとして、つるりと滑る。濡れた感触があったから、つい手の平を覗き見た。
ペンキで塗り手繰ったように赤い色を見て、克望の思考がようやく動き出す。ブスリという音は自分の腹の肉が刺される音だった。その理解に止まっていた痛みが、克望を襲った。
堪えられずに声を上げる克望を見てだろう、雪奈が異能で治そうとするのが分かる。
けれど、傷こそ塞がっていくものの、怪我の具合がひどいせいでちっとも痛みが消えない。雪奈が泣いている声が聞こえているのに、痛みに耐えられない。
同時に克望のなかの冷静な部分が警告する。いつもどこかで克望たちを見守るはずの守護役がいたはずだ。守るべき主が大怪我を負って出てこないとは、一体どうなっているのだろう。
視線だけを動かした先で、見つけたのは守護役ではなかった。そこにいたのは、目深くフードを被った黒装束の人物だ。体格からいって男だろう。その男の装束の袖口が何故か克望の目を引いた。
パチンと、そこで音が鳴る。
男の手元で聞こえたそれを見て、ぞくっと肌が粟立つ。ナイフだ。普通のナイフとは違うひどく歪な刃の形をしたそれを自分の手元に叩きつけて鳴らしている。勢いで赤いものが飛び散るが、男は気にした素振りをみせない。それどころか、今度はナイフに触れて念入りに自身の手で血を拭き取り始める。その様子はまるで、血を浴びたがっている吸血鬼のようだった。
「克望、様!」
苦しそうな声とともに、黒装束の男の前へと飛び出す別の男の姿があった。克望の守護役だ。
救いの手がきたと、期待する間もなかった。『魔術師』の子供を守る役目を負っていた、腕には自信があったはずの守護役が、一拍あけた次のときには崩れ落ちていく。そして、背中からナイフを生やしたと思ったら、男に蹴られまるで紙のように投げ捨てられる。
克望は痛みと恐怖の只中に放り込まれて、気を失いそうになった。
ぐっと歯を噛みしめ耐えることができたのは、目の前にいる雪奈が心配だったからだ。黒装束の男が克望だけを狙っているとは考えにくい。恐らく月陰家を狙う他の『魔術師』が仕掛けた暗殺者だろうとは、予想できた。そうなると、雪奈もまたその対象だ。
「逃げろ、雪奈」
叫んだつもりだったが、声が満足に出せない。目の前の雪奈は克望を治そうとするのに一所懸命だ。その背後で、男がナイフを振り上げた。既に狙いを、息絶えた守護役から克望たちへと切り替えているのだ。
ナイフが振り下ろされたら雪奈の命が危ないというのに、克望の身体は一向に動かない。気を失わないようにするだけで手一杯だ。
「逃げろ!」
掠れた声で必死に叫んだ。
自分のことなんて気にしなくていい。だから、お前だけは生きていてほしい。今度は守らせてほしい。
そんな思いだけがぐちゃぐちゃになって頭の中を巡っている。
けれど、思いだけでどうにかなるなら、とうに逃げ出せていたはずだ。克望の身体は最後の最後まで言うことを聞こうとしなかった。
「兄ぃ」
妹のいつもの呼び声が聞こえた気がした。目の前で、にこっと雪奈が笑みを浮かべる。
「良かった。傷、治った」
どうしてこんなときまで人のことばかり考えるのか。後ろにいる男に気が付いていないはずはないのに。
「もう痛くないよ、兄ぃ」
無情にも振り下ろされたナイフが、雪奈の首もとを赤く染める。蒼い瞳が見開かれ、身体が呆気なく倒れていく。
そこで、頭が真っ白になった。
気付いたときには、雪奈が冷たくなって克望に覆い被さってきていた。
その重みが肌に伝わり、泣きそうになる。こんな現実は嘘だと、そう真っ先に現状を否定したくなる。
「あ、あぁ、ぁあああ……!」
嫌だと、心の限り泣き叫ぶ。心が軋む音が、がんがんと鳴り響く。
もっと強ければ、暗殺者を返り討ちにできたのに。もっと動ければ、妹を助けられたのに。
後悔が後悔を塗り替えて、凄まじい勢いで思考が錯綜する。現実を受け入れきれずに、克望のなかで思考のタガが外れていく。目の前の景色が赤と白に飛び散った。
ありえない。妹は死んでない。死んではいけない。
そうではない。妹は生きている。死んでない。最悪な現実は否定しなくてはいけない。こんな世界、断じて間違っている。
何かが弾けとんだ気がした。それが、男にナイフで刺されたからなのか、感情が全てを否定したせいなのか、分からなかった。
ただ、耳にはいったのは男の小さな呻き声だ。
「大丈夫?」
続けてあまりにも聞きなれた声がして、克望は瞬きをした。壊れていた視界が徐々に戻ってくる。
べっとりと塗れたものの先に、あり得ない現実があった。
「え……」
克望の目の前で、黒装束の男が倒れていく。その腹からナイフが飛び出している。そして、倒れた先に、見知った姿があった。
「せ、つな?」
その瞳は確かに蒼くて、その髪は紛れもなく銀髪だ。
けれど、いつものあどけない表情はない。その顔はあまりにも無表情で、まるで人形のようだった。そして、手には男から取り上げたと思われる血塗れの歪なナイフが握られている。
克望に覆い被さってきた血だらけの妹と、目の前に立つ少女。妹と瓜二つの人間がそこにいる。見比べて、しかし理解ができなかった。
克望が現実を理解する前に、少女の後方で動きがある。少女を別の男の影が覆ったのだ。危ないと、声を出す間もなかった。男――恐らくは先ほどの暗殺者の仲間――、へと振り返った少女は、瞬く間に男の手からナイフを抜き取ると斬りつける。
あまりに鮮やかな所作に、人が一人死んでいることにも気付けなかった。
ぼんやりしていると、続けて二人が少女へと襲いかかる。更にもう一人、克望の背後、トンネルの出入口からも入ってきた。
人数が多い。守護役でも歯が立たなかったのは、この人数差のせいだろう。暗殺者は、集団で子供二人を狙いにきていた。確実に仕留めようとする意思を感じて、用意周到ぶりに寒気がする。
けれど、目の前の少女はなんなく男たちのナイフをかわすと相手の懐に入り斬りつけていった。そして克望のほうへと駆けたかと思うと、最後の一人の喉仏を掻きっ切る。
無駄のない身のこなしだが、見た目は妹だ。だからこそ、克望は吐き気がした。訳が分からなくて目の奥がちかちかする。
けれど、一つだけ確信できる。妹は淡々と人を傷つけることはしない。目の前の妹と瓜二つの少女は、妹とは全く別の存在だ。
「克望様、無事ですか!」
続けてトンネルの外から聞こえたきた声にはっとする。そこには、施設にいた速水の姿があった。騒ぎを聞き付けてやってきてくれたのだろう。
ほっとしたところで目の前の少女が走り出そうとするのを視界に捉えた。その手に握られているのは血染めのナイフだ。
ぎょっとした克望は、「待て!」と声を張り上げた。
「待つんだ、セツナ!」
妹の名前を呼んでしまったのは、見た目だけは似ていたせいだ。或いは名前を呼ばないと動かないと、心のどこかで分かっていたせいもあったのかもしれない。
どちらにせよ、少女は動きを止めた。その止まり方があまりにも急で、人間らしさはない。
「驚きました。これは、異能の暴発ですね」
関心の声が速水の口から漏れる。
「妹さんには人の怪我を治す力しかなかったはず。それがこれとは……」
速水には、雪奈が力を暴発させて急に人を襲ったようにみえたのだろう。恐らく、トンネルの出入口からは暗くて中の様子がはっきりと見えていないのだ。
「大変なんです。そいつは妹じゃなくて妹に似た何かで、雪奈が刺されて!」
支離滅裂だったが、伝わったらしい。速水はあまりにも的確な答えを返した。
「そっくりさんに異能が使えるなら、治せるかもしれません」
光が見えた気がした。
「治してくれ」
克望の心は考えることを放棄していたが、目の前の妹に似た存在が、妹と同じで怪我を治せる可能性を見いだされては、そう命令することしかできなかった。
けれど、克望の願いに反して、その存在は小さく首を傾げてみせるばかりだ。
「私?」
名前が必要なのだとはっきり認識したのは、そのときだ。
「あぁ、治してくれ。セツナ」
本当は呼びたくはなかった。セツナに雪奈を治してくれなんて、訳が分からない。
セツナは首を縦に振って克望の前で倒れている少女へ手を翳す。
それは、雪奈と同じ動作だった。だからこそ、そこから治癒の力が発せられるのだろうと思っていた。
実際には、雪奈の力の十分の一にも満たなかった。
傷が治ったかどうかも分からなかった。意識のない雪奈の表情は変わらなかったし、そこから流れる血も変わらず温かいままだ。
涙がこぼれ落ちた。本当は気がついていた。雪奈はとうに息絶えているのだ。
たとえ、目の前の存在に治癒の力があったとして、死者は生き返らない。そのことを、セツナから溢れる光がありありと映していた。




