その602 『(番外)妹(克望編2)』
雪奈は治癒の力を扱う『異能者』だった。だから、家族と離され特別な施設へと送られた。
これが他国なら、きっと一生会えなかった。雪奈は幼いから無理やりに働かされて死んでしまっていただろう。
シェパングの施設は、他国とは大きく違う。彼らは『国民を大切にする』という名目で、『異能者』を抱え込んだ。暴発の危険はあってもその力は自国の利となると、そう考えたからだ。
「雪奈に、会える?」
告げられた克望は、暫し理解できずに口の中だけでそう呟いた。
「そうです。雪奈様が施設からお出になることはできませんが、面会は許されております」
下男のその言葉に、克望の目は期待に揺れた。
「守護役と私は同行します。けれど基本はお一人でお会いになるようにとのことです」
妹と会えるのであれば何でもよい克望の前で、
「ただし」
と、見越したように下男が付け加える。
「お父上からのご連絡です。雪奈様にお会いしたいのであれば、古代語ぐらいマスターするようにと」
妹を人質にでもとられた心地だったが、そう言われてしまうと覚えないわけにはいかなくなった。
その日から克望に与えられた僅かな休息時間は、全て古代語の習得時間に成り代わった。通い始めた学び舎でできたばかりの友に早速泣きついたし、下男にも頼み込んで何度も古代語かるたで遊んでもらった。こっそり夜更かしして、手が真っ黒になるまでノートに書き込みもした。
残念ながら、それだけですぐに覚えきれるほど克望は優れた人間ではない。そんな頭が最初からあったら、妹にかるた遊びをせがまれたときに勝てていたはずだ。
だから、むしゃらにやったところで、面会を許された頃には半年が過ぎていた。
妹に会いに行ったその日。克望は不安で仕方がなかった。施設という言葉が何より不気味なのだ。雪奈がぼろぼろの姿で現れたら、どうしようと思っていた。
「こちらでございます」
案内役に連れられて言われるがままに進んでいくと、施設が見えてきた。鏡のような建物があまりにも無機質に見えて内心震え上がる。
「では、中に入ります」
途端にひっそりとした空気に包まれる。シェパングのものと思えないほど自然の香りがしない。畳の類いがなく、大理石の床がてかてかと光っているのだ。
「少々お待ちください」
下男とともにとある部屋まで案内されると、そこで案内役にそう言われた。
二人しかいない部屋の中で、ただ椅子に座って待ち続ける。
「克望様、そこまで緊張なさらなくとも大丈夫です」
彫刻のように固まって座っている克望を見かねたのか、下男にそう話しかけられる。
「見えないところに守護役も常に控えております故、めったなことにはなりますまい」
下男の言い方に、克望は初め理解ができなかった。はじめての施設に不安を抱いていると解釈されたのだと、後で気がつく。確かに、克望自身屋敷と学び舎以外の場所に行くことは初めての経験だったが、正直妹のことばかり頭にあってそれどころではなかった。克望の不安は傷ついた妹を見ることであって、知らない施設を訪れたことではないのだ。
理解されていないことに鬱々としたものを感じ、唇を軽く噛む。下男のことはひとまず思考の外に追いやろうとした。
「兄ぃ」
そこに、懐かしい声が聞こえて、はっとする。案内役とともに部屋にやってきたのは、雪奈だ。施設の中にいてもその顔は明るく、雪の妖精のような可愛らしさは変わらない。
「雪奈! 大丈夫だったか」
胸元に飛び込んでくる妹を抱きしめる。本当は『魔術師』見習いなのだから、克望は敬語を使わないといけないのだが、大事な妹を前にしてそんな些細な形式は吹き飛んでしまった。
「ご飯はちゃんともらっているか」
とても細い肩に、思わずそう声を掛ける。
「うん」
雪奈はこくんと頷いた。克望が酷いことをされていないか聞く前に、雪奈は言う。
「今日はね、お花さんを元気にする練習をしたの」
それは、異能を使った実験の一環だろう。
「そうか、それで元気になったのか」
何を言うべきか悩んで、話の続きを聞くことにした。
「うん! 施設長の正さんが、このまま頑張ればきっとたくさんの人を治せるようになるだろうって」
それは怪我人がたくさんいるところに投入されるということではないだろうか。
不安に思ったが、とうの雪奈は何も感じていないのか笑顔のままだ。
故に克望はそれ以上何も言えなかった。
それからも雪奈の近況報告は続いた。雪奈は半年の間でたくさん話せるようになっていた。その成長を見届けたかった気もしたが、今はこうして会えただけで充分だ。
「ねぇ、兄ぃ」
「ん?」
「また会いに来てね」
やはり寂しかったのだろうと、きゅっと胸が締め付けられる。
「もちろんだ。そうだ、今度は古代語のかるたを持ってきてやるから」
「うん」
せめてその寂しさを少しでもまぎらわせたい。そう思ったから、克望はほぼ毎日のように施設に通い始めるようになった。学び舎の帰りも、休みの日友と遊んだ後も、必ず顔を出すようにした。遅くなってしまうこともあったが、施設の人も悪い顔一つせず迎え入れてくれた。
そうやって何年も経ったある日、克望に一つの話が転がり込んできた。
「一日だけなら外に出ても良い、ですか?」
施設の人の提案に、克望は息を呑んだ。
「はい。雪奈さんは施設でも模範的な方です。暴発の危険性の薄い力の『異能者』でもありますし、一日であれば明鏡園内に限り散策を許しても良いと考えています」
克望は胸が温まるのを感じた。
これは施設側の人間の温情だ。というのも、そろそろ妹の誕生日がある。この人はそれを知っていて敢えて提案してきたのだ。
「ありがとうございます。えっと……」
恥ずかしながら、まだ名前を聞いていなかった。以前の人は数日前に辞めており、今の人とはまだ数回しか顔を合わせていない。
「速水と申します。改めてよろしくいただければ」
「はい、速水さん。お願いします」
可愛い妹の誕生日。まさか町に出て祝えるとは思わなかった。胸がいっぱいになっていたから、前日の夜は一睡もできなかった。気持ちが昂っていることを感じても、落ち着くことなど到底できやしない。
克望はその日、約束の時間よりもずっと早くに妹に会いに行った。
「兄ぃ」
駆け込んできた妹は既に速水から事情を聞いていた。外に出ると聞いて御洒落をしてきたようで、髪を二つにつまんで蒼い玉で結んでいた。待ちきれない様子で、白い顔を上気させている。
「では、楽しんでいってらっしゃいませ」
「速水さん、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
礼を述べる克望に続いて、妹がお辞儀する。それを見た速水が眩しそうに細い目を更に細めて笑っていた。
「綺麗」
建物から飛び出て早速、妹はそう感想を漏らした。妹が見上げているのは水面だ。そこから射し込んだ光がきらきらと水泡を輝かせている。銀色の魚たちが飛び回っている姿もまた、妹の目を惹きつけるようだった。
たった一歩。建物から出たらそこにある風景を妹は知らないのだと、改めて知らされる。
「ごめんな」
咄嗟に出た言葉は謝罪だった。
「兄ぃ?」
「……雪奈が施設に入れられたのは」
自分のせいだと続けようとした克望は、そっと唇に指を当てられ、目を瞬く。
「兄ぃは、私を連れ出してくれた。今日はお外、見せて?」
心優しい妹なのだ。兄の怪我を治して『異能者』だと発覚したのに、その兄に恨み言を一切吐かない。それどころかこうして、兄のことを気遣いさえする。
「あぁ」
頷きながら、克望は街を案内しようと張り切る。何より雪奈に与えられた自由は今日だけなのだ。時間は無駄にはできない。
克望は雪奈を連れて町中を回った。行動を許されていたのは明鏡園の水面より下の範囲だったから、太陽を見せてやることは叶わなかったけれど、それ以外の全てはみせるつもりだった。克望の通っていた学び舎にも行ったし、普段はあまりいくことのない治癒院も訪れた。階段を登り、そこから落ちる滝のような水にも触れさせてやった。
雪奈にはどれも新鮮なことのようで、目をきらきらと輝かせてそれらを楽しんだ。その横顔を見るたびに、嬉しくなった。特に、休憩時に一緒に飲んだ金粉茶は大喜びだった。湯呑みに魚の絵が描いてあって、きらきらと光る金粉が飛沫のようで、まるで水の中を泳いでいるみたいだと言うのだ。
感受性の高い妹に、克望は嬉しさと同時にようやく胸のつかえが取れた心地がした。今まではずっと、施設行きになる妹を守れなかったと思っていた。当たり前の自由を奪われてしまった妹に、申し訳なさがあった。だからはじめて笑顔を与えられたことに、ようやく一つだけ兄らしいことができたと胸を張れる気がした。
明鏡園の公園は、とても美しいことで有名だ。中央の噴水から水が四方に流れ、そこを小魚が泳いでいる。遊具は少ないものの魚や水をイメージした、妹が喜びそうな可愛らしいものが多い。特に魚の泳ぐトンネルは壮観で、亀や鮮やかな魚がいるので見ているだけでわくわくさせられる。
克望は最後にこの定番の場所を回ることにした。実際に大喜びではしゃぐ妹を見て、成功だったと拳を握りしめる。
「雪奈、これ」
きらきらと光るトンネルのなかで、雪奈は不思議そうに振り返る。白銀の髪に水面の光が当たっている。想像していなかったのだろう。蒼い瞳が次の言葉に見開かれた。
「誕生日プレゼント」
毎年プレゼントはあげていたけれど、今回は外に出ることがプレゼントだと思っていたらしい。手のひらサイズの白い箱を受け取った雪奈の頬は紅潮した。
「開けていい?」
「勿論」
嬉しそうに箱を開けた雪奈は、わっと声を上げる。
「可愛い!」
渡したのは蝶のブローチだった。蒼い、雪奈の瞳と同じ色の羽をしていて、今にも飛び立ちそうだ。胸元につけると映えるだろうことは想像できた。
「兄ぃ、ありがと!」
そのお礼を聞いたときだった。
突然、世界がひっくり返った。
ブスリという全ての終わりを招いた音が唯一、克望の耳に届いた。
目の前で、あげたばかりの蝶のブローチが、飛び立つことなく地面へと落ちていった。




