その601 『(番外)兄(克望編1)』
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
その声に期待と不安がない交ぜになる。渡り廊下から棟を覗くが、遠すぎて様子が分からない。少し前まで女中たちが慌ただしくしていたのだが、それが赤ん坊の泣き声と同時にひっそりと静まったのだ。声が聞こえるのだから無事生まれたのだろうが、生まれたばかりの赤ん坊が少しして息絶えた話を下男から聞いたことがあった。胸の奥がもやもやする。きゅっと締め付ける感じが耐えがたくて、克望はたまらず走り出した。
駆け込んだ先で声を振り上げる。
「母上!」
襖の向こうで、「あら?」という声が聞こえた。胸の奥が先ほどとは別の感情で、ぎゅっと苦しくなる。本当は近づいてはいけないと言い聞かせられていたのだ。
「ご、ごめんなさい」
呟いた言葉は思いのほか小さく萎んでしまった。
びくりとする克望の前で、襖が開く。春の陽だまりのような明るい光が部屋の中から溢れ出したように射し込む。赤ん坊の泣き声が一層大きく聞こえた。
「克望。ごらんなさい」
叱咤の声はなかった。恐る恐る近づいた克望は、「あっ」と声を上げる。母の胸に抱かれた赤ん坊が、顔をしわしわにして泣いている。驚くほど髪がなくて、頬がふっくらとしている。ぎゅっと握られた手がやたらと小さかった。
ふと赤ん坊が克望に気がついたように泣くのを止める。
息を止めた克望の目に飛び込んできたのは、はっとするほど深い蒼色の瞳だった。大きくて丸い目がくりくりとしていて、可愛らしい。触れようとして、克望は手を引っ込めた。生まれたばかりの真っ白な命だ。触れてしまったら汚してしまいそうな気がしたのである。
「あなたはお兄ちゃんになったのよ」
優しい母の声が、じわじわと心の内に浸透していった。
次の日から、毎日のように妹の元に訪れるようになった。勉強の時間の合間、稽古の時間の前のほんの一時、食事の後の僅かな休憩の時間。気になって仕方がなかったから、充てる時間は全て覗きに行っていた。
幸い、母も女中もそれを咎めるようなことはせず、むしろ女中の散菜からは折角きたからとこっそりお菓子を持たせてくれるほどであった。散菜は決まって「内緒ですよ?」とふくよかな顔を朱色に染めてウインクしてみせた。「こんなに克望様が通ってくださっているんです。応援したくなっちゃいます」と、彼女は口癖のようにそう言ってくれた。
やがて妹はよちよち歩きができるようになったと思ったら、話しかけてくるようになり、たどたどしいながらも二本の足で歩くことができるようになった。部屋を覗く克望を見つけてはその後を追いかけてくるようになり、克望のことを「兄ぃ」と呼んで慕ってくれた。
白い肌に細い銀の髪の妹は白いシェパングの装束に身を包むと、まるで雪の妖精のようだった。散菜の話では、女中たちの間でもその可愛らしい容姿が話題になっているようだ。
おまけに聡明らしく、2歳半に差し掛かる頃には古代語の読み書きの勉強も始められた。『魔術師』は日常的に使う言語よりも先に古代語を教えられることが多いにしても、こんな早くから勉強できる子供は少ない。
「兄ぃ、あそぼ」
可愛らしい笑みを浮かべて古代語のかるたを手にする妹に、ほっこりするとともに、もやもやとした気持ちが胸に宿っていく。何より克望はまだ、古代語を覚えきれていないのだ。
そして案の定、父へも連絡がいく。
「克望」
呼び出しがあったのは、ある日の正午だった。午前中の座学と稽古でお腹が空いていたが、父からの呼び出しは絶対だ。すぐに駆け付けた克望は、執務室から零れる不穏な気配に早くも胃がきりきりした。
「最近、怠けているのではないか」
「い、いえ」
上擦った声で返すと、ぎりっと鋭い視線が付きつけられる。克望が物心ついたときからそうだった。穏やかな母と違い、父は驚くほど厳しい人だ。
「口答えをするな」
「す、すみません」
つい口ごもってしまう。克望がどのような意見を述べたところでこの父の前では全て口答えになる。下手なことを言おうものなら手がとんでくる。それが分かっているから、痛みよりも先に恐怖が克望の動きを縛ってしまう。
「古代語の講義の成績がよくないらしいな」
「……」
「返事は?」
「は、はい」
父の手には成績表が握られている。くしゃりと今にも潰されそうだった。
「三歳の妹にすら負けているとは、全く月陰家の長男として恥ずかしくないのか」
やっぱりこの話題だったと、克望は胸を抑える。息苦しかったのだ。
「す、すみません」
「その態度もだ」
「え……」
言われたことの意味が分からず、克望はきょとんとした。
「その挙動不審な態度は何だ。仮にも『魔術師』の家の息子なら、もう少し胸を張って堂々としていろ」
克望の顔はくしゃりと歪んだ。目の前の父の影が、克望を踏みつけている。足ががくがく震えて、つい、いつもの言葉が口に出た。
「す、すみません」
言ってから慌てて口を塞ぐ。父の目が更に鋭く、克望を睨みつけたからだ。いつもの謝罪が父の神経を逆なでさせている。それが分かったからこそ、克望は震えあがった。
衝撃があり、息が詰まる。
痛む頬を抑える克望の身体が床へと転がる。腹の痛みに蹴られたのだと分かり、涙が込み上げた。
泣かないで戻るのは無理だった。男のくせに泣くなんてはしたないと散々言われたが、嗚咽を堪えようにも抑えきれない。顔をぐしゃぐしゃにしているせいで、女中たちが遠巻きに見ている視線にも気付けなかった。
とにかく心を落ち着かせようと、庭まで歩く。あそこにはししおどしがあって、見ていると心が安らぐ。そうすれば涙は止まってくれる。ひりひりと痛む足や腹の痛みも紛れるかもしれない。
辿り着いた先で、克望は滲む視界を鮮明にさせようと一所懸命瞬きをした。下手に目を擦ると赤く腫れてしまい、逆に目元が目立つことは経験で知っていたのだ。
「兄ぃ」
声に振り返ると、妹がたどたどしい足取りで駆け込んでくるところだった。その姿を見て、克望の顔は羞恥で赤くなる。兄が泣いている姿を見せるなど、情けない。
「兄ぃ、痛い?」
妹の心配した様子に、克望は俯いた。心優しい妹を前に虚勢を張ろうする自身が、歪んで見えた。
そんな克望の手を握りしめた妹は、にこっと笑って唱える。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」
引いていく痛みと熱に、克望は目をぎょっとさせた。涙など一瞬で引っ込んだ。
何より今、あってはならないことが目の前で展開されている。あったはずの傷の感触がみるみるうちに癒えていくなど、まるで魔術だ。
けれど、古代語こそ身に着けていても法陣を使わずに力など使えるはずがないのだ。可能性があるとしたら、それは……。
「雪奈」
克望は乾いた声で、妹の名を呼んだ。
きょとんとした妹の顔は相変わらずあどけなく、可愛らしい。だからこそ、体の震えが止まらない。知識で知っていただけの、遠い存在だった『それ』に、はっきりと思い当たる。
――――妹は、『異能者』だ。
「克望様」
女の声に心臓が飛び上がりそうになった。振り返った克望は、そこに見知った女中の姿を目に留める。
「散菜」
咄嗟に妹を抱きしめたのは、守ろうとしたからだ。『異能者』は異端だ。シェパングだから国民は大切にされるし、『異能者』だからといってすぐに酷い目に遭わされるということはない。
けれど、決して良い目にも合わないだろうことは、幼いながら理解していた。
「大丈夫です」
散菜はそう笑みを浮かべた。普段からお菓子を持たせてくれた優しくふくよかな女性が、このとき克望には女神のようにも見えたのだ。
「私は他言は致しません」
あぁ、どうしてその声を信じてしまったのだろう。
次の日、妹は施設へ連れていかれた。
確かに、この話は大っぴらにはならなかった。散菜の他言はしないとは、月陰家の不利になるようなことはしないという意味であった。だから、両親には包み隠さず報告がいったのだ。そして父によって、内密で施設に送り出された。
女中たちは断じて克望の味方ではないのだと、思い知らされた。決して消えない冷たい絶望が克望に宿ったのはそのときだ。




