その600 『イカヅチ』
「これ以上の抵抗は無意味だ。そうは思わないか」
この言葉を、イユはてっきりレパードが言ったのだと勘違いした。レパードが魔法で応戦し、式神を倒している。そして如何な『異能者』であれ常に意識して力を出し続けるには限界がある。克望は普段から多くの式神を使い、この場でも大勢の式神を呼んでいる。状況から言えば、先に力尽きるのは克望だ。
実際に、克望はイユの前で膝を折った。だから余計に、そう確信してしまった。
おかしいと思ったのは、式神が現れなくなり、レパードが魔法を放つ必要もなくなった後、静寂が部屋に満ちたときだ。
膝をついた克望の後ろには、もう一人の克望が立っていて、情けないものをみるように克望自身を見下ろしている。
イユは暫く理解ができなかった。そもそもどちらが式神で、どちらが本物の克望なのかさえ分からなかった。明確に理解できたのは、今まで全く同じ動作をしていたはずの式神が何故か違う行動をとっているという事実だった。
これは新しい克望の策なのだろうか。それとも、克望が刹那に冷たい態度をとっているように自身と瓜二つの式神にも、罵倒を浴びせたくなったのだろうか。
答えが出ないまま呆然としていると、膝をついた克望に動きがあった。何かを背中から引き抜かれた途端、身体が地面へと崩れ落ちたのだ。その背後にいたもう一人の克望の手には、赤黒いナイフが握られている。先ほど克望の背中から引き抜いたものが何なのか、そこから滴り落ちる色にイユの理解が及んだ。
「克望!」
刹那の悲鳴のような声に、思わず掴んだままだった刹那の腕を放してしまった。一目散に克望のもとに駆け付けていく刹那を見ながら、ようやくありえない事態を呑み込む。
克望が、自身の式神に後ろから刺されたのだ。
「何が起きて……」
リュイスも戸惑いの声を上げている。イユもレパードも同じように置いてけぼりだ。
「お前たちには感謝しなくてはいけないナァ」
そんなイユたちに向かって、克望の式神が話しかける。
「ようやく鬱陶しい男の始末ができた。正直、悩んでいたところだったからな。良い機会に馬車に忍び込んでくれた」
「何を言って……」
目の前の男の会話が分からない。呆然とするイユの前で、「あぁ、そうか」と男は呟いた。
「この姿では混乱させてしまうか」
克望の姿をした男が、指先で顔を拭う仕草をする。その途端、まるで顔の皮をめくりとったかのように、違う男の顔が現れる。
「まさか!」
その男の顔に見覚えがないかといえば、嘘になる。何せ、昨日本人の所有する馬車に忍び込んだばかりだ。細身で尖った顎をした黒髪の男が、陰険な顔を崩さずににやりと嗤った。
「商人の弟の方、ですか」
振り返ると、いつの間にか目を覚ましたらしいワイズが身体を起こしていた。顔色は悪いままだが、言葉ははっきりとしている。
「昨夜、馬車に忍び込んだ際、妙な気配があったのですが……、あなたですね」
リュイスの確認に、そういえば何か気になった様子を見せていたと、思い出した。
猫背気味になった男が、喉を鳴らして笑う。
「クク……、ばれていたとはナァ。しかし、馬車の持ち主を妙な気配とは、おかしなことを」
そうなると、イユたちの潜入作戦は商人に筒抜けだったことになる。元々の目的である克望を狙うのに都合が良かったから、まんまと利用されたのだ。
「よりにもよって、『白亜の仮面』を名乗るとは。クク……、嗤わせてくれた」
「貴様、は……」
男のすぐ下で倒れていた克望が、声を振り絞る。
「克望、喋っちゃ駄目」
その隣で刹那が必死に治療をしようとしている。
「抗輝の、『手』か?」
男は克望を踏みつけようとした。当然、刹那がそれをさせまいとナイフ片手に男に飛びかかる。
だが、どういうわけか蹴り飛ばされたのは刹那のほうだった。
「幾ら早くても、動きが単調なら技術で凌げるというものだ」
男は欠伸をしながら、克望を踏みつける。漏れる悲鳴に、イユは焦った。
「ちょっと、刹那が……!」
克望が死ねば、刹那も消えるのだ。
「無駄だ。今更お前たちがどうこうしたところで、こいつは終わりだ。たとえ、そこの『魔術師』がいてもな」
何故そんなことを言ったのか、イユは遅ればせながら気がついた。男の下駄の先には鋭い刃が埋め込まれていて、克望へと踏み下ろされていたからだ。それは首へとまっすぐに下ろされ、途切れたうめき声が彼の最期を示していた。
視線を刹那に向けると、刹那は膝から力が抜けたように崩れ落ちている。
「お前たちもさっさと逃げることだ。ここはそうそう見つからないだろうが、いずれは誰かがやってくる」
男に忠告をされて、イユは心の中を無理やり穿り回された心地がした。言い様に利用だけされて、その男が呑気に歩いて帰ろうとするのだから余計にだ。
「待ちなさい」
「アァ?」
振り返った男の、狂気ともとれる迫力にイユは怯んだ。気づかなかった。男の金色の瞳には、人を視線だけで殺せそうな鋭さがある。それどころか、この男は過去に何度も人を殺しているような気配さえある。
「あなた、何者」
イユの声が枯れたのは、そのせいだ。
「クク……、そうだナァ。雷とでも、名乗っておこうか」
てきとうな言い草に、しかしイユは喉が渇いてしまってこれ以上、何も言えなかった。
男が消えたところで、イユははっとする。
「刹那!」
イユが声を掛けるより先に、レパードが刹那の名前を呼ぶ。イユは声を掛けそびれ、口を閉じた。
「克望……」
ぼんやりと呟いた刹那は、表情が抜け落ちた顔で地面に横たわる克望を凝視している。レパードの声など聞こえていないかのようだ。
「動いて、克望……」
立ち上がり駆け寄ろうとする刹那に、イユたちは顔を合わせた。
「消え、ない……?」
克望の発言は、嘘だったのか。刹那も、自分が消えるとそう思っていただけなのか。それとも、これから徐々に消えていってしまうのかが、分からない。
「あれを見てください」
リュイスが指で示したのは、男が去った方角とは反対側、イユたちが来た方向だった。そこに紙が数枚落ちている。ばらばらと点在しているが、それはイユたちが下りてきた階段まで続いているように見える。
「克望が放った式神が、すぐ近くまで来ていたんだと思います」
もう少し時間が経っていれば、式神が駆け付けてきたと知ってイユは薄ら寒くなった。思いのほか、紙の数が多かったのだ。この数がまとめて来ていたら、さすがに魔法を放つ余裕もないだろう。厳しかったかもしれない。
「そうなると、式神が消えたのは事実だということですね。ですが……」
倒れていたのが不思議なぐらいに状況を把握しているワイズは、刹那へと視線を向ける。
「それならば彼女は何故消えないのでしょうか」
その答えは、イユたちには分からない。
当の刹那も、動かなくなった克望を揺するのに精一杯の様子だ。
「克望、動いて。どうして、動かない?」
そんな言葉を延々と繰り返し、呟き続けている。
「刹那」
レパードは刹那のすぐ隣へと駆け寄る。
「克望は死んだんだ。もう、二度と動くことは無い」
その宣言に、刹那はきょとんとした。上目遣いで、大きな目をぱちぱちとさせる。
「克望、壊れた? 治せ、ない……?」
「あぁ、人間は壊れたら治せない」
淡々とした物言いに、ぶるりと肩を震わせた。
「あ、あぁ……」
知らなかった。式神に心はあっても、涙は流せないのだ。
だから、刹那は不器用に声を奮わせながらその場にしゃがみこむことしかできなかった。
「あ、ぁあああ……」
泣けない代わりに絞り出されたその声が、壊れた機械のようで、イユはそっと胸を抑えた。




