その60 『ともだち』
朝の訪れは、いつも早い。
朝日が射し込まない代わりに廊下から人々の喧騒が聞こえてくると、嫌でも目が覚めた。重い身体を起こすと、七時の位置で止まる時計の針が目に入る。視線を下ろすと、テーブルに置かれた深緑色の宝石の光が眩しかった。布の下に隠しておかなかったことを後悔して、小さく溜め息をつく。仕方なく着替えをすませることにした。
鏡まで向かうと、そこには疲れた自身の顔が映っている。まだ寝ぼけていると感じ、思いっきり顔に水を掛ける。そうしていると、昨日の食堂のやり取りを思い出した。人の心を変えるなどとあらぬ啖呵を切ってしまった記憶を、顔の汚れとともに水で落としてしまいたくなる。
「大体、どうしろって言うのよ」
堪らず呟くが、答えもまた落ちてはこない。諦めてタオルで顔を拭きベッドまで戻る。そこでも、深緑色の宝石がきらきらと目についた。その光の眩しさに耐えられなくなり、鞄へとしまう。そうしてから、再び溜め息をつく。自分の頬を軽く叩いた。
そこに、ノック音が響く。
「起きているか?」
レパードの声だ。まだ朝食までには時間があるが、魔法を解きに来たのだろう。
「えぇ。開けても良いかしら?」
「あぁ、大丈夫だ」
恐る恐るドアノブに触れる。何ともないことを確認してから、捻る。すぐにレパードのもじゃもじゃの黒髪が目に入った。
「ちと早いが、追手が心配でな。朝食に行くぞ」
「何、まずいの?」
イユの不安は、レパードが首を横に振ったことで落ち着いた。
「いいや、俺らのことはどうも見つかっていないようだ。恐らく、小型の偵察船を放ってくる。その場合は俺の魔法で狂わせられるから問題ない」
魔法に集中したいから早めに来たということのようだ。だから、少し思い悩む。
「なんだ? 朝食の前に行きたいところがあるなら行ってもいいぞ」
「え、いいの?」
きょとんとしてしまった。
「あぁ。少しぐらいは問題ない。リュイスとは食堂で落ち合う約束だが、正直中途半端な時間だったからな」
「だったら……」
気は進まない。だが、引き伸ばしても余計に鬱々とするだけだ。
リーサの部屋に近づいているのだと思うと、どうしても足取りが重くなる。その度に、連れて行くように頼んだのは自分なのだと自身を叱咤する必要があった。心の声がばれないようにと、レパードとの距離が開かないよう意識する。もし気が付かれて、『やめておくか?』などと提案されてしまったら、頷いてしまう気がしたからだ。仕方無しに無理に足を動かし続けていると、急にレパードの足が止まった。ぶつかりかけて慌てて止まる。
「あそこだ。俺は立ち聞きの趣味はないからもう行くぞ」
あまりにあっさり言われて、イユは目を丸くする。
「私の見張りがいなくなるけれど、いいわけ?」
「リーサに何かあったら監視役がすぐにやってきてくれるだろ」
本当にイユをその場に置いて帰っていくレパードを見て、呆然と眺めてしまった。追手が心配ですぐに戻りたかったのではないか、それとも女二人の会話に口を挟みたくないので去ることにしたのか、いろいろなことが思いついたがどれも定かではない。案外レパードのことなので、イユを見張るのが面倒になっただけかもしれないと結論づける。
ところがレパードですら空気を読んだというのに、既に先客がいたのだ。
扉を開けようとしたとき、聞き慣れた声がイユの手を止めた。
「……なんてこと言うのよ!」
リーサらしからぬ怒りの声だ。イユは目をパチパチとさせる。
「事実だろ? お前だっていつ殺されるかわからないぜ」
物騒な単語を拾う。会話の相手は男のようだ。どこかで聞いた覚えがある。
「そんなこと……!」
「ありえないって言えるのか? 他の連中も皆、思っているぜ。『異能者は信頼できない』ってな」
イユのことを話しているのだと知って、息が詰まる心地がした。開けようと思っていた扉が、開けられずにいる。二人の口論の先にある言葉が、扉以上の分厚さをもってイユと彼らとを隔てている。どくんどくんと鳴った心臓の音が、イユの視界をも揺らし続ける。
その世界を破ったのは、リーサの次の言葉だった。
「イユは、信頼できるわ」
あまりにも迷いがないそれは、一瞬にしてイユの心のなかに渦巻いていたもやもやを弾き飛ばした。リュイスの顔がちらりと過る。リュイスの言っていた通り、杞憂だったのだと気付かされる。
「言葉だけならなんとでもいえるさ」
そこで聞こえてきた冷ややかな男の声に、堪らずこの男を殴ってやりたい気持ちに駆られた。
けれど、ドアノブを捻る勇気はなかった。まだリーサの意志が確実なものか確かめたいと考える自身がいた。昨日の様子と先程の言葉との違いが、不安という感情を生み出してイユの身体にしがみついている。自身の卑怯さを自覚したうえで、耳ばかりすませてしまう。悶々とした感情がイユを捕らえて離さない。
「それは……」
「隠れてないで堂々としていればいいんじゃねぇか」
心臓が跳ね上がるところだった。イユが隠れていることがばれたのだと思ったからだ。
しかし、その口調を吟味してからそうではないことに気づく。男の声は、優しかったのだ。
それに対して、リーサの声が荒くなった。
「……できたら、苦労してないわよ!」
今までみてきたリーサにはない一面だ。このようにリーサは自分自身に怒る人間なのだ。それがとても新鮮で、意外だった。
すすり泣くようなリーサの声が聞こえてくる。それを聞く前に退避しておけばよかった。唐突に、扉が開き逃げるようにして男が出てきたのだ。男と、今まで話題にされていたイユが鉢合わせしてしまった。
「あんた……」
イユの記憶に新しい。昨日レンドとともにイユへの反感を露にしていた黒髪の少年がそこにいた。聞き覚えのある声だと思ったが、まさに昨日聞いたばかりだったわけだ。
少年の焦った表情が、一気に怒りを帯びたものに変わる。
「聞いていたのかよ、異能者」
冷ややかな口調に、扉の奥で聞こえていたすすり泣きが消えた。
「……別に、好きで聞いていたわけじゃないわ」
近くでみると、その少年はイユより一回り大きい。年は少し上といったところだろう。深い紺色の瞳には眼力があり、黒髪は無造作に束ねられている。肌は褐色で、細身ではあるものの、そのしなやかさはどこか黒豹を連想させる。血気盛んな若者という印象がイユのなかを占めた。
「話は終わったのでしょう? 帰ったら?」
冷ややかに言ったつもりはなかったが、少年にとっては気分の良い言葉ではなかったらしい。
イユのことを睨みつけ、声を押し殺して告げられた。
「……近づくなよ」
いつ襲ってくるかわからないからと言わんばかりの言い草である。恐らくは、精一杯の威嚇のつもりだろう。
しかしイユにしてみれば、少年の言動は虚勢にしか映らない。魔術師ならば、イユにそうした警戒さえ向けない。兵士ならば、いきなり鞭が飛んでくる。正直に言えば、レパードやミンドールのほうがよほど怖い目つきをする。
吐き台詞のつもりだったのか、少年はイユを避けて去っていく。他の船員にありがちな怯えを一切みせないところは評価しても良いかもしれない。
邪魔者がいなくなったところで、イユは扉の奥を見た。
「……入っていいかしら」
扉は開け放たれているから、一歩進めばリーサの姿が見えるはずだ。しかし扉の先に踏み入ることが、そのままリーサの心に踏み入る行為のように感じたので、許可を乞うことにした。
暫くして、頷く気配がある。ゆっくりとイユは、扉の中へと足を踏み入れる。
リーサの部屋は、イユの部屋と作りはほぼ同じものの、彼女らしい可愛さがあった。床には桃色を基調にしたラグが敷かれていて、テーブルの上には花が飾られている。そしてその隣の椅子に腰掛けていたリーサが、イユのことを見ていた。目元がわずかに赤い。
「……盗み聞きして、ごめんなさい」
リーサに対しては、素直に謝罪の言葉が出た。
リーサには細い声で、
「ごめんなさい」
と呟かれる。どうして謝るのかと、イユが尋ねる前にリーサの口が開かれた。
「幻滅、したわよね?」
イユは首を横に振った。
「私は、リーサに嫌われたのだと思ったわ」
素直に吐露すると、リーサに驚いた顔をされる。
「そんなこと……」
その驚きがイユには少し嬉しかった。同時に、リーサのその言葉が本心でありながら全てではないことを悟っている。この驚きも事実ならば、リーサが逃げ出したときの瞳の震えも間違いなく事実だ。
「けれど、リーサは私が怖いでしょう?」
「それは……」
案の定、言葉は濁された。しかし、そのあとでリーサから続けられる。
「私、イユが怖いだけじゃなくて、イユに会うのが怖かったの。なんて顔をして会えばいいのか分からなかった」
じっと聞いていると、リーサは更に続けた。
「イユに烙印があるって皆に知れたとき、イユが死んでしまうって思ったの」
事実、イユは危うく死にかけた。
「怖かったの。私、昔から怖いと思うと、泣くことしかできなくなって……」
リーサは顔を両手で塞ぐ。全てを拒絶するかのような泣き方だった。
「ごめんなさい! 私がちゃんと言えば、……何度も助けられる機会はあったのに。本当に、ごめんなさい……!」
自身を責めるリーサを見て、悟った。反対した二名がリュイスとマーサだけだったのは、リーサがその間泣いてばかりで発言できなかったからのようだ。
「何もできない私に、イユの友達として会う資格はないって……、そう思って」
リーサが吐き出した言葉は、イユにとって最も嬉しい言葉だった。それが綺麗ごとで綴った言い訳でないことも、リーサの涙をみればわかる。
「リーサは、セーレを出た私に手を振ってくれたじゃない」
「それは……、もうイユに一生会えなくなるかもって思って……」
勇気を振り絞って会いにきたらしい。イユにとっては嬉しい出来事だったのだが、リーサにとっては図々しい甘えのように感じるらしく、むしろそのときしか会いに行けなかったことを恥じている様子だった。
なによりもイユの受けた印象とリーサの考え方の違いが不思議だった。リーサは基本的にイユに肩入れした状態でイユに対する行動を決めていると感じられたからだ。
「リーサ」
無性に嬉しくなってきたイユは、リーサのもとに近づくと、リーサの前に座る。膝に感じるラグの感触が心地よかった。
「私ね。嬉しいのよ」
「え?」
昔を振り返らずにはいられない。
「……施設にいた頃は女の人ばかりいたけれど、こうやって想ってくれる人はいなかったと思うの」
イユのなかで女の存在がチラつく。
「実を言うと、一人だけ優しくしてくれた人もいたのだけれど、その人はいなくなってしまったし、リーサのとは少し違う気がするわ」
あのときイユを助けたあの女は、あくまで弱者としてのイユに手を差し伸べたのだ。女に憧れはあってもリーサに抱くような感情とは全く別のものだ。
「だから、何かしら……。こういう気持ちになったのは初めてでうまく言葉にできないのだけれど」
本当になんて言葉にしたら良いのかわからなかった。掛けようとしていた言葉が、急に何処かへいなくなって探しても見つけられない。いつもならば、思ったことはすぐに口にできた。それが、どういうわけか今はそれができない。
「イユ……?」
悩んだ末、イユは持ってきた宝石をリーサに渡した。唐突な行動にリーサが戸惑っているのを感じる。しまったと後悔がよぎる。やはり何かいうべきだったのだろう。けれど、言葉が出てこない。
「ひょっとして、お揃い?」
イユの首にかかっている宝石をみて、リーサが先に勘づく。
頷きながらも、何故か頬が赤くなる自身を感じていた。
ふいにリーサがころころと笑い出す。
「ちょっと、笑うことないじゃない!」
思わず声をあげると、リーサが笑いをこらえて
「ごめんなさい」
と謝った。
「あなたがあまりにも不器用なものだから、つい」
「それはこちらの台詞よ」
友などというものは、もうずっと縁のないものだと思っていたのだ。
イユから贈られた宝石はイユのものと同様、ペンダントとしてリーサの首に収まった。おそろいの宝石だ。互いの首に飾られた美しい深緑の光が穏やかに光っている。イユが異能者施設を脱出してから、二つ目の形ある宝物になった。




