その6 『自己紹介』
気が付くと、そこはひんやりとした地面だった。微かに木の匂いがする。指が視界に入っている。ささくれた木の板の感覚が、指の腹に伝わる。
冷たいなと感じた。指がぴくりと動く。
「目、覚めた?」
子供の声がしてはっと体を起こした。
木の板は甲板だった。冷たいのは太陽の光を浴びても尚、冷えた空気が浸透しているからだ。風が吹きつけているものの比較的穏やかな青空に、帆がのびている。
少女は、飛行船に乗っていた。
「目、覚めたみたいだな」
声のする方を振り向くと、毛むくじゃらの男、レパードが歩いてくるところだった。紫の上着は前がはだけており、頭の帽子から伸びる赤い羽根の装飾は無駄に大きい。黒髪はもじゃもじゃし過ぎて龍族の特徴でもある鱗に覆われた耳が埋もれていた。そして眼帯に、左目の下の傷をはじめとする複数の傷跡が目に付く。
先ほどは全く見る余裕がなかったが、今なら男の姿から少女はこう判断する。この男はどこからどうみても空賊に違いないと。
「傷はどうだ」
男の外見に似合わず気遣われて、少女は自身の状況を思い出した。痛みこそ異能のお蔭で感じていないものの、衝撃は背中から一気にきたのだ。致命傷だったかもしれない。
「まだ、完全に治ってない」
少女が答えるより先に、後方から返事があった。
振り向くと、見たことのない異風な格好をした子供がすぐ近くに立っていた。月白色をした短めのドレスの腰部分に、菫色の帯を巻いている。ドレスの下から伸びた本紫色のズボンに、白い靴下が覗き、板に縄を括りつけただけの見慣れない形の靴を履いていた。銀髪は肩につくかつかないかのところで切り揃えられている。その髪の一部を、御洒落のつもりだろうか、蒼の玉で二箇所ほど結っていた。
「もう少し、かける」
子供は少女へと両手を向ける。
淡白い光が発せられるとともに柔らかい風が吹いてくる。少女はそれが治癒の力のある異能か何かだと気付いた。口ぶりからすると、気を失っている間もかけられていたのだろう。
「いい。自分でできるから」
遮ると、少女は自身の治癒力を最大限に引き上げた。傷が癒えていくのを感じる。どこまで傷が深かったのか今ではもう分からない。跡形もなく完治する。
近くまでやってきた男はその様子に「異能か」と呟いた。それから、ぼそっと突っ込む。
「服が汚れたまんまだぜ」
しかし、服の血の跡まではどうしようもない。それに少女は見栄えまで気にしてはいない。
「別にいいわ」
そう言いながら、自身の服を見下ろした少女は、ぎょっとした。ドレスが腹部あたりを中心に黒ずんでいる。腕の傷の比ではなかった。
そうした様子を見てだろう、男に笑われる。
「あとで、着替えを貸してやるよ」
それから男は後ろを振り返り、叫んだ。
「リュイス、目を覚ましたみたいだぞ!」
視線の先、少し離れたところで、三人の男たちに囲まれた少年がいた。
男の声を聞き振り返った少年が、一目散に駆けつけてくる。その顔が殴られたように若干腫れているのが気になったが、それ以外は何も変わりない。むしろ顔がいかにも心配していましたと言わんばかりで、少年らしかった。
「良かった、目が覚めたんですね」
「えぇ」
「傷、痛みませんか? 大丈夫ですか」
少し、しつこい。
「別に、平気よ」
押しやるように答えると、少年は申し訳なさそうな顔になった。
「まぁ、元気そうだな」
男に体調をそう判断される。やれやれという仕草が、少し癪に障った。
「レパードに、リュイスでいいの」
不機嫌な声を隠そうともせず、少女はあくまで確認をすべく名前を伺った。
「ああ。で、あんたは」
一瞬、躊躇いがあった。
「…………イユよ」
そう、答えておく。レパードの目が一瞬鋭くなった気がした。
「異能者なんだよな」
「えぇ」
その質問に対し、今更隠すこともない。素直に答えたイユは、改めて二人に確認をとる。
「そっちは二人とも龍族ね」
それから、この中で一番よくわからない人物を見やる。
「……で」
子供は理解してないのか、首をきょとんと横に傾げてみせた。
「あ、刹那っていうんです」
リュイスが代わりに名前を教える。
刹那はそれで初めて気づいたように、こくんと頷いた。それに合わせて、左右ばらばらの量に束ねられた髪がはねる。身長の低さといい、その動作といい、顔の幼さといい、全てが年相応に感じた。だが、腰に巻かれた菫色の帯に、ナイフがささっているのをイユは見逃さなかった。
「異能者なの」
イユの問いには、首を横に振られる。
先ほどの力は異能ではないということになる。まさかこいつも龍族なのだろうかと考えたイユは、刹那を凝視する。
ところが蒼色の瞳は大きいが、鋭い瞳孔は見られない。むしろどこか虚ろで、瞳に意思を感じない。耳も確認するが、鱗もなければ尖ってもいない。どのみち龍族ならば力の説明がつかないだろう。
「……魔術師なの」
分かる範囲の唯一の可能性を尋ねた。魔術師がこれほど若いわけがないし、迫害される身分の龍族と一緒にいるわけがないのだが、イユの知識のなかで他に力を使う者に当てがなかったのだ。
しかし、それにすら首を横に振られてしまう。
「俺らもよくわかんねぇで、付き合ってんだ」
補足するようにレパードが付け加える。
刹那は腰を少し曲げて、頭を下げ、「よろしく」と挨拶をした。
全く、変わった連中である。
ここはイユの常識とは程遠い所にある場所のようだ。迫害されているとばかり思っていた龍族二人が得体のしれない刹那という子供と組んで飛行船に乗っているときた。おまけに三人以外にも、船内を走りまわっている数人の男たちがいた。いかにも船員といった感じの者もいれば柄の悪そうな男もいる。何の集団であるのかまるで理解できない。
しかし男たちからの時折くる遠巻きな視線に、自身も人のことはいえないのだと察することはできた。男たちの視線はイユへの純粋な好奇心によるものか、それとも突如やってきた人物への警戒心によるものだろうか。
傷は治ったとはいえ、血の不足までは異能で補ってはいない。そこまでの制御は今のイユにはできない。そのせいかどこかぼうっとしている頭でそうしたことを考えていると、男たちのうちの一人が、慌てた様子でやってきた。
「船長、大変です!」
レパードに向かって声を張る。
龍族が船長とは一体どういうことなのか。言葉を聞くたび理解できない事柄が増えていく。
それにしてもリュイスの口ぶりからてっきり仲間はレパード一人だと思い込んでいたのだが、話が違うようだ。
「どうした」
「奴ら、船を用意しやがった。追いかけてきます!」
その声と同時に、飛行船ががくっと揺れた。