その595 『絶対に、イヤ』
イユは目の前の式神ごと後方へと跳んだ。
もし条件が、式神に腕を捕まれた程度のことであったなら、きっとイユの異能で無理やり下がって避けきることができた。それができなかったのは、背後で声が聞こえたからだ。
「イユ、待ってたわ」
その声に、イユの目が見開く。それはずっと、聞きたいと思っていた声だった。その声が、イユの名前を呼び自身は無事だと報せている。思わず振り返ったイユの口が、声の主の名前を叫ぶ。
「リーサ!」
次の瞬間、イユの視界が反転した。
痛みが走って、顔が引きつる。ふるふると身体が震えている。克望に斬りつけられたのは右手だけだ。腕を抑えつけられ、仲間の声を聞き一拍遅れた分。それだけなら、まだ良かった。
イユの膝が崩れ落ちる。目の前に会いたかったはずの黒髪の少女がいる。にっこりと白い顔に笑みを浮かべて、イユがきてくれたことを喜んでいるようにもみえる。
けれども、その手には真っ赤に濡れたナイフが握られている。
「あ……」
自身の腹に手を当てると、濡れた感触があった。滴った血で一気に染まった赤色が、目の前でちかちかする。
「うそ、でしょう」
よりにもよって、リーサに。
イユが懐いた感情は、悲しみでもなければ、絶望でも、ましてや怒りですらなかった。何もうけつけず、生まれもしない。それはまるで、ぽっかりと空いた深淵に心を吸いとられていくようでもあった。何故とも、どうしてとも考えられず、ただ、どくどくと自身の体温が失われていく音を聞く。無という名の帳が落ちるそのときまでずっと、イユにはそうすることしかできず――――
「イユ!」
レパードの声に、途切れそうになったイユの意識が引き戻される。イユを動かしたのは、声に含まれた焦りと不安の響きだ。
これ以上、心配を掛けたくない。
その思いだけが、イユに声を絞り出させた。
「へ、いき」
言いつつもふらりとよろめいたイユの体は、気付いたときには床の冷たさを感じている。
「手を用意しておかないわけがなかろう」
イユの目に、克望の足元が映った。視界が明滅して見にくいが、シェパング独特の、木の板に紐を括りつけただけの靴、下駄だと分かる。同時に刀の先端らしきものが確認できる。恐らくは、イユが少しでも動きを見せればいつでも斬りつけられるように、克望が構えているのだろう。そのうえで、余った手でリーサの肩を抑えているのだろうことが、自然と分かった。まるで労うかのような仕草に、怖気が走る。リーサに触らないでと言おうとして声が満足に出なかった。
「さて、我の式神は忠実でな。貴様が我を打つ前に我の式神がサロウの娘を撃つことになっているが、如何哉?」
冷や汗が身体中を滴り、身体の震えが止まらない。衝撃で鈍った頭が、ようやく事態を把握する。克望を捕まえるはずが、イユのほうが人質になってしまった。
「脅しのつもりか?」
「そうでもしないと、か弱い我らにお前たちは力で蹂躙しようとするだろう」
ぎっと歯を食い縛る。まずは歪んだ視界を戻さないことには、満足に動けない。急げと、身体に治療を命じる。ここで死んだら、イユはリーサの重荷になる。リーサは、イユとは違う、強くて優しい人間なのだ。イユは自分のせいで誰かが死んでも気にしないが、もしイユがリーサのせいで死んでしまったら、リーサは傷つく。十二年前のカルタータの心理的外傷のうえに、更に消せない傷をつけるのだ。そんな思いは絶対にさせられない。
「ちなみに、迷っている暇はないぞ? 我の武器には毒も仕込んであるからな」
今にもからんからんと、レパードが銃を投げ捨てる音が聞こえそうだ。リーサが、にこやかにイユを見下ろしているのを同時に感じる。
考えたら分かることだったのだ。キドが暗示に掛けられたということは、他の仲間も充分に同じ目に合う可能性があった。分かっていたのに、リーサの声を聞いて、固まってしまった。空白になってしまったイユの頭に、現実は限りなく残酷だ。
イユは、リーサを前にして、リーサたちを助けられずに死んでいく。
「そんなのは……、絶対に、イヤ」
奮い立たせた思いがあったから、イユの体は動いた。克望の突きつける刀を無視し、リーサに向かって跳びつく。切っ先が自身の背中に当たったが、それどころではなかった。リーサもろともレパードのいるほうへ倒れ、リーサを連れて逃げようとし――、
「馬鹿ですか、あなたは」
ワイズの冷たい声とともに、頭に衝撃が走った。
杖で殴られたと分かったのは、その後すぐだ。けれども、文句を言おうにも声は急に萎んでしまって、視界も明滅しており、動けないでいる。
ただ、ワイズの声だけはひどく明瞭に、聞こえた。
「わざわざ敵の人形を連れて逃げようとする人がありますか」
その声は普段の軽口とも違い、完全に人を見下していると分かる冷徹な声だった。
故に、イユの身体を流れる血は、かっと熱を帯びる。治療の光には気づいていたが、ワイズを責めること以外に考えられなかった。
「リーサは人形じゃ!」
出なかったはずの声は怒りのおかげか、相手に届く程度には絞り出せた。
けれども、ワイズにその声が聞こえても、冷めた目を向けてくるままである。
「人形ですよ」
暗示に掛けられた人間に対し、なんて冷たいのだろう。『魔術師』は子供でも大人でも変わらないと、思い知らされる。
「違うわ、リーサは助けないと」
そんなイユの前にはっきりと、ワイズが宣言する。
「その紙が、本当にあなたの仲間に見えるんですか? あなたの目はやはり、節穴ですね。人間の目とは思えません」
「な、んですって……?」
あまりの衝撃に頭から水を被った気分がした。目を瞬いたイユの目に、確かに小さな紙切れが飛び込んでくる。床に転がったそれは、ワイズのものと思われる杖で突かれたような痕がついていた。そして、疑いようもなく先ほどまでいたはずのリーサの姿が消えている。
「しき、がみ?」
ようやく理解が追いついて、身体が別の意味で震えた。克望にそっくりの式神がいたのだ。リーサにそっくりの式神がいても、おかしくはない。克望はイユの気を引き留めるために偽物のリーサを用意したのだろう。式神をリーサの形にしたのは、イユがリーサの名前を叫んでいたからに違いない。
やられた。
見事なまでに、敵の策中に嵌まってしまった。ワイズでなくてもイユのことを見下したくなる気持ちは分かる。イユですら、自分のあまりの愚かさに辟易している。
けれども、同時に安堵もする。本物のリーサがイユを傷つけたわけではないのだ。それを知って、心の重荷が少し軽くなる。
「ようやくですか」
呆れたような、けれど少し安堵も入ったワイズの声に違和感を持った。少し考えて気づく。その声に、力がないのだ。
「ワイズ?」
起き上がったイユの前で、ふらりと、ワイズの身体が崩れ落ちていく。杖から溢れた光がイユに届く前に霧散した。
それで、理解した。この短期間に、イユの体はいつの間にか止血されていて、意識は怪我の具合を考えるとおかしいほどに、はっきりしている。毒もあると克望が言っていたはずだが、その影響は全く感じられない。
大怪我だったのだ。イユ自身の異能があるとはいえ、その怪我を治療するのに負担が掛からないはずがない。そして、人の大怪我を治すたびに倒れていたワイズだ。今回もまた、無事でいられるはずもない。ましてやここまでの道中、走りっぱなしだった疲れもある。
「ワイズ!」
イユの顔が再び真っ青になる。口から血を出して倒れていくワイズを支えようとして、その軽さにぞっとした。まるで命があるとは思えない――、それこそ人形のような、軽さだったのだ。




