その577 『霜陰山脈へ』
イユは甲板から目の前に聳える山々を眺めていた。
あれから、レンドとキドと桜花園で別れたのは既に二日前。タラサは検問のぎりぎりの範囲を目指して飛び続けている。支度は一通り終え、あとは到着を待つだけの時間だ。
ちなみに、道中一度イユだけ別の場所に待機した状態でのタラサの飛行も行った。所有者として認識されているイユがどれだけ離れても本当に船は動くのか試すためだ。厳密な距離は測ったわけではないので何とも言えないが、ライムたちに言わせると一応クリアしたことになるらしい。それで晴れてイユは陸路をとっても問題ないということになった。『反応石』をシェパングが持っている可能性は否定できなかったので、イユとしては陸路をとることができてほっとしている。
タラサの甲板はクルトによって修理され、イユたちの代わりにレパードが取りに行ったギルドの紋章旗が掲げられている。今日は黒い艶のある羽をした鳥の絵になっていた。後でリュイスに聞いたが、鴉らしい。
「あ、イユ。休憩中だったかな?」
背後から声が掛かり、振り返る。レッサが歩いてくるところだった。
「構わないわ。もう戻るつもりだったし」
「そう。それは良かった。育てている野菜についてなんだけど」
種は数日前植えたばかりだ。
「何かあったの?」
「うん。芽が出てきたから教えておこうと思って」
「えっ、もう?」
植えたのは桜花園を出る直前のことである。
「南瓜だけだけどね」
見てみるかと問われ、イユはすぐに頷く。そろそろイユが船を下りる時間も近い。タラサを下りてしまったら、恐らく次見たときにはもっと芽吹いてしまって、育てたという感じはしないだろう。
「霜陰南瓜って、意外と小さいのね」
そして想像していたよりずっと、緑色だ。数は少ないが、ひょこひょこと顔を覗かせている様は、イユにとっては不思議の産物だった。種を植えたのは他でもないイユ自身だが、あんな粒から経った数日で命が芽吹くとは思わなかった。
それにしても、これから陸路で向かう場所の名前の南瓜だ。同じようなものが山道に植わっているかもしれないと考える。道中、育っているものを食してみるのも手かもしれない。
「まだ植えたばかりだからね。きっとこれからあっという間に大きくなるよ」
「そう。戻ってきたときが楽しみね」
そして、リーサたちも連れ帰って、野菜だらけの畑を見せたいものだ。セーレにもあったが、規模が違う。驚くことだろう。それよりもまさか、セーレに代わる船として、イクシウスのような国が乗りそうな船に乗っているなんて思わないだろうから、仰天させてしまうかもしれない。
「……絶対、連れて帰るから」
キドが生きていたのだ。きっと皆も無事のはずだ。そう願って、イユは強く拳を握りしめた。
「僕らもすぐに追いかけるから、気負わないでね」
レッサの言葉に、イユは頷く。
「多分、僕らのほうが船の分、早く着いているかもだけれど」
「確かに、普通に考えたらそうね」
検問とやらがどれぐらいかかるものなのか分からないが、山越えのほうが時間が掛かるのは目に見えている。
「その場合は明鏡園で先に情報収集しているからね」
そう考えると、イユたちのほうが『異能者』や『龍族』である分、足手まといな感じがする。
「明鏡園の警備が厳しい場合はこのまま別行動という話だったけれど、そう上手く連携できるのかしら」
タラサを遠目に見つけて、合流できたら合流する。それが可能ならば、そうしたいのは山々だ。しかし、山を越えた先、明鏡園含めた周囲の状況が全く読めない以上、それぞれがそれぞれの判断で動くしかない。通信機はレンドが持って行ってしまったが、こんなことになるならもっとたくさんもらっておくべきだったと苦々しく思う。
「難しいと思うけれど、こればかりはね。せめて、ペタオがいれば手紙でやり取りできたんだけど」
リーサたちと一緒に行方知らずになってしまった鳥のことを、あてにするわけにもいかないだろう。イユはふと、レッサの瞳が僅かに潤んでいるのに気がついた。きっとヴァーナーのことを思い出していたからだろう。イユがリーサを特に心配しているように、レッサにも心配をする相手がいる。過ごした年月だけで言えば、むしろイユよりもレッサのほうが無茶をしだしてもおかしくはない。
「泣き言を言っても始まらないわね。もうそろそろ時間よね? 荷物、取ってくるわ」
「あ、うん」
レッサに見送られ、厨房から出掛けたイユは、足を止めた。
「レッサこそ、気負っちゃだめよ? ミスタやラダしかろくに戦えないんだから」
イユの言葉に、レッサは蒼い目を細めてはにかんでみせたのだった。
飛行船は、霜陰山脈の中腹で止まった。あまり接近過ぎると危険だと言うことで着陸はせず、少し離れた場所から梯子を垂らしていく。防寒着を着、荷物を一通り背負ったイユたちは、クルトとミスタに見送られて、船を下りるところだった。
「比較的風が穏やかで助かりましたね」
ワイズの感想に、クルトが「ひやひやだよ」と呟いた。
「山の周囲って風向き変わりやすいらしいからね。ラダじゃなかったら墜ちるでしょ」
タラサはふらふらと山肌近くに滞空している。それができるのはラダの腕があってからこそ、らしい。
話を聞いていたようで、通信機からジジジ……と、音が零れる。クルトが直した、甲板にある通信機だ。そこからラダの声が聞こえてくる。
「ベッタならもっと近づけたと思うけれどね」
ベッタはリスクが大好きな男なのだ。本当にぶつかるかぶつからないかすれすれのところまで行きそうである。
「安全運転で頼むわ」
「本当にそれ。助けに行く前に大事故起こしてちゃ世話ないからさ」
イユとクルトの会話が終わったことを確認したレパードが、
「忘れ物はないな?」
と確認する。
「当たり前よ」
「俺が先行する。ついてこい」
レパードはそう答えると、通信機に向かって声を張り上げた。
「ラダ、この船は頼んだ」
返事を聞くことはせず、すぐに梯子を下りていく。
「えっと、それじゃあ、いってきます」
リュイスもクルトとミスタ、通信機越しにいるラダたちに声を掛けた。今の時間、レッサは休んでいるが、ライムも通信機を繋げているはずなのだ。最も、ライムの返事がないのはいつものように没頭しているせいだろう。
「うん、気を付けてね」
「えぇ。あなたも馬鹿をやって怪我をしないようにしてくださいね」
クルトの言葉に、ワイズがいつも通りの調子で声を掛け、リュイスに続いて降りていく。しんがりはイユだ。
「相変わらず可愛くないなぁ、もう」
「仕方ないわ。いつものことよ」
「イユも達観しないでってば」
最後にクルトと明るく会話して、イユは梯子を掴んだ。
「イユ」
珍しくそこで、ミスタに声を掛けられる。
「数日後に会おう」
「えぇ」
合流時の不安が吹き飛ぶような、ミスタらしい力強い宣言だった。
イユもまたそれに答えるように返して、梯子を下り始める。霜陰山脈の大地へと足を踏みしめた。




