その574 『その相手の名』
嫌なことを思い出すラダの様子を見て、イユも思い出したことがある。夢で昔の出来事を思い出したとき、リーサがイユにココアを作ってくれたことがあった。あれで落ちつけたものだ。
「見ていられないわ。温かい飲み物を持ってくる」
それぐらいならば、イユでもできるだろう。そう考え席を立ったイユに声を掛けたのは、レッサだった。
「あ、ちょうどさっきお湯を沸かせるようにしたから、使って」
「えっ、あの短時間に?」
レッサがタラサに戻ってきてから数時間しか経っていない。そのことに驚くと、レッサは頷いて返した。
「うん。元々部品が足りなくて詰んでいただけだから」
「そう。さすがね」
「やり方が分からないと思うから、ついていくよ」
さすがのレッサの仕事の早さに感謝していると、そうレッサから提案があった。湯を沸かすのにやり方も何もないと思ったが、大人しく頷くと厨房に移動する。
「ここ。このボタンで温かくなるから」
「えっと、火は?」
見慣れた炎が見えずにイユは当惑した。
「驚いたけれど、これ、ガスは使ってないんだ。それでも温かくなるから」
確かに言われた通りにすると、徐々に湯が沸き始める。レッサ曰く、仕組みが違うらしい。電気を使って熱を起こしているらようだ。説明を聞いたものの、イユにはさっぱりだった。
「あ、ごめん。分からないよね。えっと、お茶の葉はこっちだよ」
「えぇ。ココアはないのよね?」
「うん、ごめん。そっちは売っていなくて」
飲むとほっとするお茶の葉が、棚に置かれている。長い間旅をする場合に備えて、かなりの量が買い込まれていた。部品だけではなくこの手のものまで気が回るのは、レッサらしいといえる。
「そうだ、ここに種も置いてあるから」
お湯が沸くまで時間が掛かる。その待ち時間に、レッサが伝えたのは買ってきた種の置き場だった。
「これらは何の種?」
イユは種を初めて見た。セーレでセンが育てていた野菜は既に育ちきっていたのでこうして実物を見ることはなかった。そう考えてから、正しくはそうではないと気がつく。種自体は食卓で実際に見たことがある。
「いろいろだよ。霜陰南瓜、十日大根、桜花雪葉。泣甘唐辛子。青蘭紫蘇もあるよ」
種類ばかりは豊富だが、問題がある。
「育て方がよく分からないわね」
シェパングならではの呼び名のせいかもしれないが、聞いたことがない名前のものが多い。
「そうだね。そのあたりに詳しそうな人が今はいないか。基本は僕でもわかるから、後は試行錯誤してみるしかないね」
詳しいのはセンだろう。リーサやマーサも分かるかもしれない。
ちくりとイユの胸が痛んだ。彼女たちと再会するために頑張っているものの、現実はどうなるか分からない。なるべく気にしないようにしていたその痛みが、ふいに湧き上がった。
「あ、沸いたみたいだ」
やかんの沸騰する音を聞いて、イユの意識は引き戻る。お茶をいれるとイユたちはすぐに厨房から出た。
飲み物を用意して戻ったときには、キドの様子は少しだけ落ち着いたようにみえた。それでも、お茶を差し出したイユはキドの手が小刻みに震えていることに気づく。
「……飲めそう?」
手が震えすぎて落としてしまわないか、心配だ。
「あぁ……」
どうにか受けとりながら茶を口に含むキドの様子を、見送るしかない。
ほっとするお茶の効能だろう。たった一口でも、心なしかキドの顔色がましになって、ようやく安堵のため息がでた。
キドに構い続けるのも本人にとっては負担になるだろうと言われ、イユたちは皆で敢えて談笑しながら待っていた。こんなときにたわいない話などできるかと思いつつも、明るい雰囲気を作るのが大事なのだと言われては文句など言えまい。幸い、クルトやワイズがいると、自然話を振られてしまい、話題には事欠かなかった。
そうこうするうちに、レパードがキドに話掛ける。そろそろ落ち着いたと判断したようだ。確かに、キドの震えは収まり顔色もよくなってきた。
「大丈夫そうか?」
「はい。すみません……。こんな、皆がいる前で」
「いや、そこは俺の配慮が足りなかった」
「え、船長は関係ないと」
言い合いが続きそうだったので、クルトが「ちょっとちょっと」と分け入る。話していたイユたちの会話も自然止まってしまった。
「ボクも衝撃は受けたけれどさ、それよりキドの状態が気になるんだけど」
クルトだけでなく周囲の面々の顔を一通り確認していくキドの表情は、先ほどまでとは比べようもないほど落ち着いている。それでかなり安心はできた。
「俺は大丈夫です。記憶もどっちが正しいのか分かってきました」
イユはごくりと息を呑む。キドに掛けられた暗示が解けたのは良かったが、その詳細を聞くのがどこか怖い気さえした。
「というと、嘘の記憶が入っていたということか?」
レパードの確認にキドは首を横に振る。
「いいえ。俺が初めにお話しした情報は大筋合っています。ただ俺は、聞いていたんです」
「聞くって、何を?」
これは、イユだ。何故か喉がからからに渇いて、言葉を発するのも大変だった。
そんなイユの前で、キドもまた言いづらそうに目を瞑り、それから絞り出すように呟いた。
「仲間の、呻き声です」
キドの言葉に、しんとタラサ内の空気が重くなった。シェルの大怪我を見て、分かってはいた。しかしながら、仲間が傷ついているのを知ってその場にいることすらできなかったことが、一行の胸に重たく圧し掛かる。
「それって」
クルトが声を掠れさせて聞く。
「暗示を掛けられたんだと思います」
キドの言葉はいろいろな可能性が考えられたそのなかでも、嫌な類いのものだった。
「よく聞こえなかったんですけれど、うめき声だけじゃなくて、うわ言みたいに何度か繰り返し呟いていて……。あの声は、そう、間違いない。アグルのものでした」
レンドが息を呑むのが伝わる。アグルは生きてはいた。だが、暗示に掛けられている可能性が高い。その葛藤が、レンドの眉間に皺となって現れる。
「アグルもシェパングの出身だからな。キドと同じ扱いかもしれないな」
レパードの希望に近い発言は、こう言っている。キドと同じで、一部の記憶を書き換えられた状態で故郷に帰されているのではないかと。
その望みをキド自身が絶った。
「いえ、こういうのもなんですが、俺の家は『魔術師』とも時々交流するぐらいなので例外だと思います。両親はバカ息子が『魔術師』に矯正されて帰ってきたと大喜びで、むしろ『魔術師』に恩ができた、感謝しなくてはと言い出すほどなんです」
イユにはあまりに馴染みのない価値観に、理解するのは難しい。キドの家のような感覚を持つものは中々いないだろうと言いたくなるが、実際のところはどうなのか、イユにはよくわからない。『魔術師』が一般的に抱かれるイメージがどういうものかは知っておいたほうが良いかもしれないと考える。
「……ただ、アグルは多分そうじゃないと思うんです」
キドはそこで苦々しく告げる。
「確かにあいつはそんな大した家柄ではないな」
レンドの発言に、「そうですよね」とキドが呟く。
「そうなると、故郷にかえされているとは思いづらくて。場所も遠いはずなので」
そこまで話してから、キドが思い立ったような顔をした。
「あと、そうだ。もう一つ大事な話が。メンバーが俺みたいなギルドの者と元々セーレにいた面々とで別れたといったんですが、その後、俺は桜花園に連れてこられたんです」
それは聞いた情報だ。そう思っていたら、キドは首を横に振った。
「皆、克望だと思っていますよね? そうじゃないんです。桜花園に引き取られてからは……」
イユたちは顔を見合わせる。全員が全員、前提が大きく変わりつつある予感を胸に抱きながら。
「声だけですが、はっきりとわかります。俺は会ったことがあったから。俺に暗示を掛けたのは……」
掠れる声で、キドは呟いた。その言葉に、レンドがぎょっと目を見開く。
「抗輝です」




