その572 『手紙と』
イユはふぅっと、息をついた。
航海室の掃除が終わり、食堂も綺麗にした。調理場はレッサが午前中にいろいろ弄った後があったので、下手に触ることができなかったが、それ以外は満足いくレベルで綺麗になったはずだ。そして、廊下も掃除し、資料を調べ中のワイズに鬱陶しがられながらも船長室も掃除し終わると、とうとう医務室がやってきた。
医務室にはシェルがいる。眠っていることを祈って、イユはゆっくりと扉を開けた。
いつも、医務室は驚くほど静かだ。だが、今日に限ってその医務室から何かを書くような音が聞こえてくる。その音の正体に気づいたイユは、気が気でなかった。シェルにどんな顔をして会えばよいか分からない。シェルを引き留められるだけの言葉が、今のイユには思いつかなかった。
「ねぇちゃん?」
立ち止まっていたイユに気づいたのか、文字を書く音が消えた。
「シェル、その……」
何を言えばいいのだろう。悩むイユにはすぐに言葉が出てこない。
「お弁当なら、さっき船長が配りに来たよ」
だから先に、そうシェルに言われて、戸惑った。
「そ、そう? なら、よかったわ」
全くよくないと心の中だけで呟く。一体いつの間に、レパードはシェルに弁当を配りに行ったのだろう。それも、弁当は桜花園に来たとすぐに分かるものだったはずだ。タラサが今どこにいるのか、シェルははっきりと悟ったことだろう。
「ねぇちゃんに頼みがあるんだけれど」
「何?」
先に切り出されて、イユはごくりと息を呑んだ。
「どうにか今日中には書き上げるから、できたら出立前にギルドに手紙を届けてほしいんだ。明日の朝には出立するんでしょう?」
シェルの言い方はあくまであっさりとしていた。そこに明るさすら感じ、油断しそうになる。
しかしその内容はとても望んだものではなかった。聞き間違いようもなく、手紙と言っていたのだ。故に、イユの表情は曇った。
「それって、シュレイアへの……」
「あ、うん」
シェルもまた気まずそうに頷く。
言わなければ、と思った。もやもやしたままにはしておけない。はっきりと、シェルにはセーレの一員として残ってほしいと改めて伝えるべきだ。
「シェルは、桜花園で下りるつもり、なのよね?」
切り出そうとして絞り出した声は、自分でも驚くほど暗かった。震える手をぎゅっと握りしめる。いつの間にか俯いていた顔を、どうにか引き上げた。
そこで、イユは気が付く。シェルの表情が、どこか憑き物が落ちたように穏やかであることに。
「シェル?」
少し話しにくそうに、しかしはっきりとシェルは、告げた。
「それが、船長と相談してもう暫くここにいることになったよ」
イユは思わず瞬きをした。聞き違いかと疑い、次は夢を見ているのかもしれないとまで考える。頬をつねっても答えがでないので、ついに本人に再確認した。
「……本当に?」
「うん」
やはり、聞き間違いかもしれない。
「本当の本当に?」
「本当だって、ねぇちゃん」
力強く言われて、ようやくイユの頭にその言葉が響く。そうして一通りの事実をゆっくりと呑み下した瞬間、深々とため息がでた。
「ね、ねぇちゃん?」
「いや、ちょっと安心して」
安堵のため息なのだ。それぐらい、吐かせてほしい。
「なんか、ごめん」
「ちょっと、どうしてそこで謝るのよ!」
ぬか喜びですと言われたらどうしようかと、イユは焦る。実際には、シェルの謝罪は別方向のものだった。
「心配掛けてたなって思って」
「当たり前でしょう」
「うん。だから、ごめんって」
「……」
言葉が出てこなかった。嗚咽を呑み込むように頷くイユに、シェルはあくまで軽く伝える。
「手紙、頼んでいいかな?」
「そういうことなら、もちろんよ」
手紙は、約束通り次の日の朝に書き終わっていた。力尽きたのだろう。僅かに寝息の聞こえる医務室で、丁寧に封のされた手紙を受け取る。そこには、汚い字で「インセート、ハナリア孤児院、シュレイア様」と書かれていた。
イユはその手紙を確かにギルドへと持ち込んだのだった。
それはそれとして、天と地がひっくり返るような出来事が、前日の夜に起きたのだ。
「えっ、えっ、えっ、えぇ?!」
奇声に近しい声を上げるクルトの気持ちは、イユにはよく分かった。リーサたちを助けるための情報収集に出たレパードが、件の人物を連れ帰ってきたのだから当然である。
「なんで、こんなところにキドがいるの!」
全員の気持ちを代弁して、クルトが叫んだ。
当のキドは唯一の個性である右頬のほくろを引っ掻いて、呟く。
「凄い。今までで一番注目されたかもしれない」
キドより一歩控えていたレパードが、どっと疲れが出たように大きく肩を竦めてみせた。
「お前は充分個性あるから、自信を持て」
「えっと、ありがとうございます?」
疑問符を言葉の最後に浮かべて、キドが答える。それを見ていたクルトが溜まらずに叫んだ。
「だから、何でここにいるのさ!」
結論から言うと、キドは自身の生まれにより助かったらしい。
全員で食堂に移動した後、キドを囲う形で皆が話を聞いている。キドはシェルやライムのときと違い、はっきりと襲われた当時の状況を理解していた。
「本当に危なかったんですよ。雪の子みたいな子供に、ナイフをさくっと取り上げられてあっという間に捕まって……」
キドたちは奇襲にあった。本人曰く、奮闘しようとしたのだが、元々戦いは人並み程度しかできない。子供とは言え腕の立つ相手には歯が立たず捕まったのだという。
「それで、俺たちは気が付いたら船に乗せられていて」
目が覚めたときは既に船内だったが、船の特徴からして貨物船だったという。縄で縛られたキドたちは積み荷のようにして運ばれた。喚こうにも猿轡をされ、逃げ出そうにも手足を縛られて動くこともできなかったそうだ。そうして、されるがままに、シェパングに向かったのだという。
「最も、シェパングだってことは解放されて初めて知りましたがね」
と、キドは付け足した。
そして、キドが続けて言うには、その後選別があったらしい。
「俺たちは目隠しもされていたので詳しい様子がわからなかったんですが、あれは……、刹那の声だったと、思います。セーレに元々いた人たちとギルドから入った途中参加組に分けられて……、俺は後者だったんですが」
イユたちが刹那の名を聞いても驚かないからか、「やっぱりそうだったんですね」とキドは暗い顔で呟いた。仲間が裏切っていたと知るのは、辛いだろう。その仲間が人間でないかもしれないなどと言うのは、今は憚れた。一通りキドの話を聞いてから、後で伝えることにする。
それはそうと、選別されたそこで、キドは自分の出身に気付かれたらしい。
「シェパングの人間だろうって言われて、俺だけ解放されたんです。あの声、どこかで聞き覚えがあるような気がしたけれど……、思い出せないな」
最後は一人呟く形になったキドに、レンドが問いかける。
「お前と同じように振り分けられた連中は?」
「すみません。そこまでは分からず……。とにかく、俺はそれで、桜花園の実家に連れられてきました」
その距離があまりにも近かったために、初めからシェパングにいたのだと気づいたと言う。
「ちょっと待って、それなら私たちが心配していたときに、呑気に里帰りをしていたってことよね?」
ついつい、非難の声を上げた。そんなイユに、レパードが制する視線を向ける。言い過ぎだと言うのだろう。
「そうは言いますけれど、こないだまで監視がいたんですよ。それに、あの声が本当に刹那だったらと思うと、迂闊に暗号の手紙も出せないですし」
確かに、刹那なら同じセーレの手紙は読めてしまう。それ故に、手紙は出せないのは理解できた。解せないのは監視の存在だ。
「何よ、その監視って」
「あの物騒な雪ん子ですよ。家の外に出ると近づいてくるんです。昼だろうが夜だろうがお構いなく。全く、いつ寝てるんだって言いたくなります」
キドの話だと夜更けだろうが夜明けだろうが、抜け出せそうな時間は全てを試したらしい。だが、監視を出し抜けなかったと言う。
「それが数日前からぴたりと見かけなくなって、初めは罠かと思ったんですが……、どうも本当にいなくなったみたいです」
それで外に出て行動を開始しようと動き出したところ、レパードに会ったということらしい。
「船長が、その……、夜の、あ、いや、艶っぽい女の人に声を掛けられていて、騒がしくされていたので気付けました」
キドがそう言いながら、何か思い出したのか視線を逸らしつつ、顔を赤らめる。イユにはその反応の意味が分からなかった。他の皆も特に反応はしない。だがもしここにジェイクがいれば、女の人に声を掛けられたというレパードを大変羨ましがったことだろう。
「ただの昔の知り合いだ。目立ったことは気づいたからすぐに逃げるつもりだったんだが、逆にそれが良かったようだな……」
「でもそれ、泳がされていないよね?」
クルトが不安そうに視線を船の外へと向けた。
「いや、尾行らしいものは感じなかった。それに、俺らが来たタイミングを見計らっていたとしたら、俺らのことが既にばれているとみるべきだ」
確かに、キドがいつイユたちと合流することになるかは相手にも分からないはずだ。ましてやイユたちが乗っているのはついこないだ乗り換えたばかりのタラサである。ばれる可能性は低い。
「船長が目立ち過ぎたわけじゃなくて?」
「言っとくが、声を掛けられたぐらいだからな。そこまでではないはずだぞ」
真面目に答えるレパードに、クルトは「うぅん」と唸る。
「となると、怪しいのは……、暗示?」
クルトの呟きには、ワイズが嘆息をもって答えた。
「初めに浮かぶべき疑問でしょうね」
そうして鳶色の瞳をくるりとイユへ向ける。
「幾らあなたの記憶力が三歩歩けば忘れる程度だったとしても、『魔術師』の形跡があるかどうかは分かるのではありませんか?」
前半の誹謗中傷はさておき、言いたいことはイユには分かった。改めて、キドを見る。右頬のほくろ以外は特にこれといって特徴のない地味な男だ。特に今は空賊さながらの恰好のレパードの隣にいるせいで、まるでヤクザに脅されて立たされている青年にしか見えない。
「多分だけれど……」
そして、『魔術師』を庇うような仕草があればすぐに暗示に掛かっていると断定できたが、キドの発言には何もおかしなことは無かったように思う。シェパングという国はシェパングに元々いる人間を大事にするというのが、実践されているのかもしれない。
だからこそ、おずおずとイユは意見を述べる。自身の感覚を信じることにしたのだ。
「掛かっていると思うわ」




