その571 『琴の音色』
エルダとの昔話に区切りがついた後、レパードはギルドを出て桜花園を歩き始めた。時刻は夕方。そろそろタラサに戻らないといけない時間だ。
だが、久しぶりにきた桜花園の空気が懐かしくて、ついつい長居したくなる。それに、探したい民家もあった。
「あそこか?」
レパード自身、『龍族』だとばれる可能性があるため、桜並木より下には出向くつもりはない。だから、遠方からその家を目にしただけだ。けれど、聞いていた特徴から大方のあたりがつくほどには、その民家は他の家と比べて一回り以上も大きかった。本当は、『魔術師』たちのいる大樹の区画にあってもおかしくないほどだ。
コロン、ポロン、コロン、コトン……。
そして、そこからは琴の音が絶えず聞こえてくるのである。
「あれが、キドの家か?」
本人はいないのだ。だから赴いてもどうにかなる話でもない。むしろ両親に、息子はシェパングの『魔術師』に攫われましたなどと伝えては仰天されてしまうことだろう。
キドは、代々桜花園で琴を製作する家の長男に当たる。琴の美しい音色は、シェパングの『魔術師』たちを昔から虜にしているらしく、その位は、下級貴族とほぼ同等程度の扱いになる。何でも、普通の人間では琴の材料である桐を伐採することさえ許されておらず、見つかった者は罰金を課されるらしい。特にキドの家は有名で、琴の献上を許される幾つかの家の中でも、最も多く『魔術師』にその楽器を提供してきた。故に家も格式高く、その成果を表すように大きいものになっているわけだ。当然、暮らしも裕福である。家を継ぐ長男であるキドは、本来そうした暮らしを送るはずだったのである。
しかし、地味で目立たない自身にコンプレックスを抱えていたキドは、同じように琴を製作する日々にも地味さを感じており、それに耐えられなくなった結果、あろうことか家を飛び出した。そして、ただギルドに入るだけでは飽き足りず、よりにもよってレパードたち『龍族』のいる、わけありのギルドにやってきたわけだ。『目立ちたい』という理由だけで、約束された平穏な暮らしを捨て危険な旅路に挑んだのだ。レパードとしては理解できないし、その行為自体が十分目立っていると言ってやりたくなる。
そんなキドも、戦争の話をすると途端に顔を曇らせた。それはこの家が何より平和を愛しているからだ。平和の世界でこそ、琴の音はより美しく響く。故に平和を何よりも尊いものとすべし。そうした教えを、家を飛び出しても尚、信じていたのだろう。
レパードの遠い記憶に、ラヴェが琴を弾く姿が蘇る。琴は手に入るような代物ではないが、奏者の物真似で触れる機会があったのだ。あのときの、初めてなりに弾いたラヴェの音は、確かに当時の平和を象徴するようであった。
懐かしさを空しく噛みしめていると、背中越しに声を掛けられる。
「そこの色男。ちょっと寄っていかないかい?」
その声に聞き覚えがあった。レパードが振り返ると、見覚えのある女の姿が視界に入る。思わず、目を見張った。
「お前か」
「あぁ、なんだ。ひょっとして、ルインかい? 随分大きくなってまぁ」
そういって笑みを深めたのは、豊満な胸元を大胆にさらけだした女だ。結い上げた黒髪に金色の珠をあしらった髪飾りが刺されている。着ている装束には金糸で編まれた蝶が夜空を飛び交っている様子が描かれていた。見ただけで上質な生地を使っているのがわかる。加えて首元には翡翠のネックレスをしており、その恰好から身なりがよくなったことが窺えた。数年の間に、良い客がついたのだろう。
「あのときは、私の半分くらいの背しかなかったのにねぇ」
「嘘つけ。俺はそんな子供じゃなかったぞ」
そもそも出会ったのは十二年前よりもさらに前のことだが、その頃は既に成人していた。
「細かいことはいいんだよ。老けたって言われるよりずっとマシだろう?」
「そういうお前はびっくりするほど変わっていないな、シェイーナ」
言われたシャイーナはにっと笑みを更に深くする。その笑みは、可憐な蝶というよりは獰猛な虎を思わされた。その表情でも人気があるのは、不思議と人を惹き付ける生まれもっての華やかさと本人のさっぱりとした性格のお陰だろう。
「世辞がうまくなってまぁ」
別に世辞を言ったつもりはなく、昔から変わっていないのは本当のことだ。ついでに声量も変わっておらず、周囲の人間が何事かとちらちらと振り返っている。
「それより、ラヴェンナちゃんとは上手くいっているんかい? あんたたちったら急に姿を見せなくなって、それっきりだったから気になるんだがねぇ」
そして、察しの悪さも以前と変わっていないようだ。第一、姿を見せなくなったからにはそれなりの理由があるものだろうと言いたくなる。
「あんたたち、びっくりするほどお似合いだったからねぇ。ようやく、あんたもあの子のお蔭でまっとうに暮らせるようになったと胸をなでおろしたもんだったけれど」
シャイーナの話は続いている。話を聞きたがっているというよりは長年会っていなかった積もり積もった思いを訴えることのほうが本人にとって重要らしい。レパードが口を開く間もなかった。
「で、どうなんだい? まさかラヴェンナちゃんを泣かせてはいないだろうね?」
泣かせるどころか、殺してやると啖呵を切られたほどだ。そう、出掛かった言葉を呑み込んで、そっと帽子の鍔で表情を隠した。
「……悪いな、シャイーナ」
自身の迂闊さを呪う。久しぶりに桜花園を覗いて、ついこの街の雰囲気に当てられてしまったのだ。軽い気持ちでふらふら歩くべきではなかった。
「察してくれ」
それだけを伝えるので精一杯だった。ふらりとレパードはシェイーナの横を通り過ぎる。
「あ、待ちなよ」
慌てて追いかけようとするシャイーナを視線だけで制し、そのままタラサに向かって歩き始めた。
後方からシャイーナの戸惑いの声に混じって、琴の音が聞こえてくる。
コロン、ポロン、コロン、コロン……。
弾くような音は、荒んだレパードの心には不思議なほど耳についた。
なるほど、確かにこの音は、平和な気分のときに聞いた方ほうがいいなと、苦々しく思うのであった。
「えっ、船長……?」
そのとき、困惑に満ちた声がレパードを呼び止めた。声の主を探そうと振り返ったレパードは、ここにはいるはずのない人物の登場に足を止める。
「間違いない。本当に船長だ……!」
あるはずがなかった。よもやこんなところで、里帰りなどと。




