その563 『桜の気配を感じながら』
トントン……
ノックをして中に入る。返事はなかったが、起きている気配はあった。
「シェル、いるか?」
「……うん」
小さな返事には、打ちのめされたような弱弱しさがあった。それだけにレパードは不安になる。
「桜花園に着いた」
まずは事実を伝える。とはいえ、タラサ内は随分と人気が減ったのだ。いつもは船内にやってくるイユたちがいないことからも既に察しているだろう。
「うん」
「イユから話は聞いている。孤児院へ手紙は書けたのか?」
暫く、返事はなかった。そのことに安堵している自身がいるのを感じる。嫌な船長だなと、レパードは心の中で自嘲した。本人は苦しんでいるはずだ。それなのにその手が進まないことを好ましいとさえ思っている。
「…………ううん」
絞り出すような肯定は、どこか諦めた様にも聞き取れた。それもそうだろう。シュレイアがシェルを含めた子供たちのことを思っていることは、ハナリア孤児院に訪問したレパードも知っている。そのシュレイアに、どんな言葉を送れば悲しませずにすむか、他人のレパードにも想像できない。
いや、とレパードは小さく首を振った。
他人などとよく思えたものだ。レイファに続きシェルまで命の危機に瀕したのだ。レパードはシュレイアにとって、憎き仇でもおかしくはない。全く、シュレイアに合わせる顔がなかった。
「書くことを止めようとは思っていないんだな?」
シェルが驚いた顔で見上げる。その発想がなかったとでも言いたげだ。勿論、今の提案はレパードにとっても逃げに当たるものだった。
「……うん」
そこは、逃げるつもりはないらしい。
「伝えないといけないとは、思ってる……。仕送りもできないし」
仕送りの心配なら不要だぞと、言いたくなった。レパードはシェルたち孤児がギルドで働きながら孤児院に仕送りしていることを知っている。シェルからのそれが途絶えたら、シュレイアはシェルが死んだと思うだろう。だから、手紙で伝える必要があるのだ。
最も、レパードとしてはただいてくれさえすれば賃金ぐらい払ってやると言いたくなる。だが、それだけはできない。そんなことを提案してしまったら、過去ギルドを離れた孤児たちに顔を向けられないからだ。
レパードの脳裏に、おっとりした赤紫色の瞳の少女が浮かんだ。ジュリアは、そんな孤児たちの一人だった。レパードが必死に残るよう説得したにも関わらず、決して首を縦に振らなかった。足手まといになりたくないと言っていた。それは、自分の生き方ではないと。
「そうか」
だから、それ以外に何と答えればよいか分からなかった。情けない大人だと、自身に呆れる。こういうとき、本当はどういう言葉を掛けてやるのが適切なのだろう。
「船長は、イユねぇちゃんから聞いてる? ……街に着いたら下ろしてって言ったこと」
本人から切り出されて、レパードは頷くしかなかった。
「本当は分かっているんだ。生きていくあては、ないってこと」
シェルの声に若干憂いが籠った。
「桜花園は観光地だけれど、怪我人には決して甘くない。手持ちの給金も燃えちゃって今はないから、治癒院はもってのほか、孤児院に戻ることもできないって。それに、仮に戻れても……」
「居場所はない、か」
言わんとすることを察して、先回りした。自身の言葉は誰よりも自身に突き刺さるものだ。だから、言わせたくなかったのだ。
「うん。そうだよ。動けない孤児を養う余裕なんて、ない。皆、そう。だから、にぃちゃんたちは怪我をしても絶対戻らなかった」
にぃちゃんたちというのは、シェルがいたときの孤児院の兄や姉だろう。シェルもまた彼らの後に続いたに過ぎない。
「オレ、こんなことになるまで心のどこかで侮ってた。自分はずっと元気で五体満足でいられるって。もしくはレイファねぇちゃんが死んだときみたいに、急にころっといくんだろうって」
死ぬ覚悟と、身体のどこかが一生動かなくなる覚悟は別物だ。レパードにもそれは分かるような気がした。
「こんな風に生き残るなんて思ってもいなかったから、どうすれば良いか分からなくて……」
シェルの独白は「オレは馬鹿だったんだ」と責めているように聞こえる。実際そうなのだろう。手を打っておかなかったから、今どうしたら良いか分からないと考えている。しかし、それはどだい無理な話だ。未来はどうなるかなど、誰にも分からない。一体どこの誰が明日失明することの構えなどできるものだろうか。そんなものは大の大人でも無理だ。それにレパードの私見としては、こんな子供にそうした心構え自体してほしくなかった。
「勿論、ここにいたってどうにもならないのも分かってる。でもオレ、本当にどうしたらいいか分からなくて……」
「シェル」
レパードはシェルの言おうとすることを遮った。このまま語っていても、出口のない迷路に嵌まってしまうばかりだと分かっていた。
「依頼がある」
意外な響きではなかったのだろう。既にイユがシェルに仕事を渡している。だからこそ、どこかすがる目をして、シェルはレパードのほうを向いた。
「タラサの地図の解析を頼みたい。分かっているだろうが、地図が古すぎて使い物にならない。現在地が分かっただけではこの先不便だ。製図の知識がある人間は、今のセーレの面々には殆どいない」
レパードはシェルの目を覗き込んだ。片目しかないもの同士、視線をはっきりと合わせる。
「俺たちには、お前が必要だ」
きっと、レパードの言葉は、期待していた通りのものだったのだろう。欲しかったものが転がり込んできたかのように、希望を前にしたシェルの目が潤んだ。
しかし、シェルは中々頷こうとしなかった。嗚咽を堪えるように顔を伏せ、何かに葛藤するように肩を震わせる。
「優しすぎるよ」
溢れた言葉は、涙に濡れていた。
「本当は、皆の負担になるだけなのに」
「それは今もそう思っているか?」
シェルの吐露に被せるように、レパードは告げる。
「お前は実際にイユたちと一緒に製図をしてみせた。片目になって間もない頃だ。線どころか点だって思うように描けないだろ。手も驚くほど動かなかったはずだ。当たり前のことができなくなるんだ。自分に苛立つし、虚しくなるばかりだよな?」
確認をするような言い草をしながら、レパードは答える隙を与えなかった。
「だが、それでも、お前はやり遂げてみせたんだ」
はっきりと、「お前は凄い」と明言する。
「ここまでのことをした後でも、本当に自分には何もできないと、まだそう思うのか?」
シェルの努力を理解できる人間は少ない。恐らくそれを強要したイユですら、その大変さを真に理解できてはいまい。
だからこそ、レパードはシェルを称賛したいのだ。
「ううん、こんな身体でもできることがあるって言うのは分かった、と思う。勿論、迷惑をかけることの方が多いけれど」
「それなら、少しでも日常生活を送れるようにリハビリをするしかないだろうな」
厳しいことは分かっている。リハビリも辛いが、それで船に乗れるほどの生活が送れるとは到底思えない現実が何より厳しい。
「ねぇ、船長もそうだったの? 船長も目を……」
「そうだな。俺には、支えてくれる人の悪い馬鹿野郎がいたからな。そいつのおかげで、リハビリは続けられた」
どこかで死ぬことを考えていたレパードが、それでもリハビリをやめずに生きたのはあの馬鹿野郎のおかげだ。その男が死に、代わりに自分が生きていることを皮肉に感じつつ……、今はシェルのことだと振り払った。
「とにかく、拾った命ってものは自分でも意外な使い道があるもんだ。まずは生きてみろよ。それで出来ることを増やしていくんだ」
「……うん」
気力が参っていた頃よりはシェルの返事は心なしか前向きだ。それはイユたちのお陰だろう。イユは仕事を与え、リュイスは個別に話をしにいっていた。影でワイズが定期的に治癒魔術を使っていたのも功をなしているかもしれない。
「ありがとう、船長」
だから、シェルは感謝の言葉を述べられるほどに回復したのだろう。




