その56 『知らない事実に』
鍵の取り付けが終わったというクルトに呼ばれ、イユとリュイスは部屋を出る。
「じゃあね!」
と楽しげに手を振るブライトが扉の向こう側に消えると、続けて鍵が掛けられた。
「こんな感じかな。リュイスも外れないか試してみて。ボクより力あるはずだし」
取り付けた鍵が簡単に外れないことを手で実践してみせたクルトは、リュイスに同じことをさせる。
「大丈夫そうです」
リュイスの様子を見る限りでは、確かに無理やり外すのは難しそうだ。
しかし、本当にこのままブライトを部屋に残したままでよいのかが分からない。クルトが金具を取り付けている間も、ペンの類がないか再度確認したのだが、どうにも不安が消せない。
「イユは試さないでよ。絶対壊すやつだから」
「やらないわよ」
横からクルトに言われて、諦めることにした。不安を消そうと思ったら、ブライトをロープでぐるぐる巻きにするしかない。そうでもしない限り、ブライトの笑みがちらつくのである。
「じゃあ、ボクは仕事あるから」
「ありがとうございました」
忙しいのだろう。クルトはリュイスからの礼を受けると、片手で仰ぐように手を振った後で足早に去っていった。
「イユさんのことでお話したいことがあるのですが」
リュイスに話を振られ、神妙に頷く。
イユは、一度下りるはずだった船に再度乗り込んできた異能者である。ブライトほどではないにしろ、立場はあまりよくはない。今後どうなるか、話したいというわけだろう。
「それなら、私の部屋にいきましょう」
イユの提案は理に適っているはずだ。すぐ隣の部屋であり、他に誰もおらず、もともと数日間しかいなかったせいで散らかっていない。
「そうしましょう」
リュイスの快諾を受け、すぐに部屋の扉を開けた。
部屋は驚くほど変わっていなかった。元々汚してはいなかったが、まだ片付けも入っていないのだろう。そのせいもあって、今朝までいたというのに妙に安堵してしまう。
イユたちはテーブルを挟んで席に着いた。リュイスは壁に収納されている椅子を取り出して座り、イユはベッドを椅子代わりにして座る。早速、話が始まった。
「聞いているかもしれないですけれど」
最初にそう前置きを入れられる。
「イユさんのことは、レパードから僕に一任されています」
正直なところ、ほっとしている。レパードがイユのことを投げ出すつもりなら、リュイスに一任などしないからだ。イユはセーレに残っても良いと判断されている。そう、みなしてもよいのだろう。
「それで、私はどうなるのよ」
「その前に、まずはセーレについてお話をしておきます」
リュイスのポシェットから紙とペンが取り出される。それからリュイスは、紙をテーブルに広げ、何やら書き始めた。
「セーレは、大きく分けて二つの船員の集団に分かれています。一つは、セーレに最初からいる初期メンバー。もう一つは、船を動かすために雇ったギルド員ですね」
リュイスが紙に書いている内容も確かに二つの塊に分かれている。
リュイスはそのうち左側の塊を示す。
「初期メンバーですが、おおよそイユさんの知っている人物だと思います」
「例えば?」
小首を傾げると、リュイスからの返答がある。
「マーサ、リーサ、クルトです」
確かによく知る顔触れだ。
「ギルド員には、取りまとめがいます。それがクロヒゲです」
航海室での様子を思い返し、納得する。
「レパードは?」
聞くと、
「船長です」
と返ってくる。
イユの顔を見て言葉が足りないと気づいたらしい。リュイスから補足が入る。
「レパードは初期メンバーとギルド員の橋渡しをしてくれるような存在です」
「つまり、どちらにも属していないということ?」
確認をすると、戸惑った顔を浮かべられた。
「いえ……。どちらかというと、両方に属しているのでしょうか。困っていた僕らにギルド員を紹介してくれたのがレパードです」
その言葉から、リュイスは初期メンバーらしいと想像がつく。
セーレの内情について少し見えてきたことで、気が付いた。セーレにいたいと言ったが、本当はセーレについて全く知らずにいたのだ。
「今更だけど、セーレってどういう集まりなの? 龍族のことを皆平気で受け入れているわよね?」
はっきりさせておこうと思い尋ねたが、リュイスの視線はそこでイユから外される。
「ええと……、はい、受け入れてくれています」
肝心のセーレについて説明をする素振りは見られない。その様子で、レパードに口止めされているのだろうと結論づける。『カルタータ』という言葉を持ち出したときのブライトとレパードのやり取りを思い返せば、『カルタータ』にセーレが絡むことは想像できる。それについて答えてもらえるほどには、信用されていないのだろう。
「けれど、異能者のことは警戒しているでしょう?」
「それは、リア……、前にいた異能者のことがあったからで」
本来ならば、異能者であっても受け入れたということらしい。
――――たとえセーレの素性が分からなくても、イユがセーレにいたいと言った理由が覆ることはない。そのうち必要であれば話してくれることだろう。
そう判断し、追及はやめることにした。
「分かったわ。とりあえず前にいた異能者と違うって理解してもらえれば良いんでしょう」
リュイスから頷き返される。
「イユさんがセーレの皆に認めてもらうには、一人一人に話をして納得してもらうのが一番だと思います」
イユの頭に浮かんだのはレパード一人のことだったが、リュイスの説明ではセーレの船員たちが対象となるらしい。
考え方の違いに気がついたことで、理解が及んだ。恐らくは船長であるレパードの権限は言うほど強くはないのである。
だからリュイスは事情を明かさない程度にセーレの話をしている。初期メンバーとギルト員、それぞれの集団に対して一人一人に説明が必要だと考えているようだ。
「ギルド員にはレパードとは別に取り纏めのクロヒゲがいるんでしょう? そこから当たったら良いんじゃないの?」
船長が駄目でもその一つ下の人間から話をつけたら良いのではないか。そう考えたうえでの提案だ。
「そうですね。イユさんの仰るとおり、本当は、取り纏めから話にいって、許可を得たら一人一人にあたるのがいいのですが……」
同意は示されたが、煮え切らない様子を見せられた。クロヒゲがイユのことを危険視しているようには見えなかったが、リュイスの考えではそうではないのかもしれない。
「えっと、今は忙しいので話にいくのは控えるべきだと思います」
言い訳がましい説明をされたが、リュイスの言うことも一理ある。追手が掛かる前にセーレを無事に避難させられるかどうかは、航海室にいる船員たちの手にかかっている。
「初期メンバーには取り纏めはいないのよね」
仕方ないので、もう一つの集団について確認を取る。船を動かすために雇ったギルド員が忙しいということは、もう一つの集団から話をつけにいくのは自然なことだろう。
「はい。ちなみに、今だと初期メンバーは僕を含めて十二人います」
「……思ったより多いわ」
リュイスの話ではセーレ全体では不在の二人を含めて二十三人の船員がいるという。それを一人一人当たっていくとは、ずいぶん途方のない話である。
「そうですね。ただ、マーサたちとは仲良くやっているようなので正直そちらはあまり気にしていません。心配なのはギルド員のほうでして……」
「つまりクロヒゲでしょう? 忙しいんじゃないの」
話を戻されて、イユは苛々とリュイスを睨みつける。
そこで、リュイスに首を横に振られた。
「だから、先にギルド員のなかで会わせたい人がいるんです」
その人物の名は、アグルというらしい。何でもリアとは別の異能者と関わりを持ったことのある人物だそうでイユに対する印象も悪くないはずだという。どうやらリュイスは確実に味方にできる人間から話を持ちかけるつもりのようだ。
「船を動かすためのギルド員でしょう? クロヒゲ以外も忙しいんじゃないの?」
「彼は甲板部員なので、それほどは。船の修理で忙しくしているとは思いますけれど、専門的ではない仕事なので僕らでも手伝えます」
イユの懸念には、そう返ってきた。仕事を手伝いながら話をつけるつもりらしい。
「イユさんには、この名簿を渡しておきますね」
そう言って先程まで書いていた紙を差し出され、イユとしては何とも言えない気持ちになった。
「気持ちは嬉しいのだけれど、私には不要よ」
リュイスには首を傾げられる。伝わっていないらしい。
「どうしてですか? あったほうが船員について把握しやすいかと思いますけれど……」
とまで付け加えられて、余計に言葉に詰まる。
「そう言われても……」
言い淀むと、ようやくリュイスに気づいた顔をされた。他人の様子には気を配っているように見えるが、妙なところで鈍感である。内心、リュイスを小突きたくなった。
「すみません。字が読めないのですね」
言い当てられて、頷く。イユの記憶は異能者施設から始まっている。そこでは字の勉強を教えてもらう機会など万が一にもなかった。
「生きるのに、必要なかったから」
そう言い聞かせる。なんとなくは、気づいていた。汽車に乗り込んだ先でも、イニシアの街を歩いたときにも探せば多くの文字が溢れていた。
だがそのどれもがイユには意味をなさない。ないものとして気にしないでいたが、意味をなしていないのは自分だけということは薄々感じていた。気にしている余裕も、そしてそもそも学ぶ機会も、今までなかっただけだ。
「それなら、勉強をしないといけないですね」
「勉強……?」
イユの人生において、あまりにも聞き慣れない言葉だ。
「はい。文字が読めるようになることはこれから生きていくうえで必要なことですから」
そこまで言われて初めて、字が読めないことへの問題を強く意識する。異能者施設にいたから知らないというのでは通用しないのだろう。この世界で生きていくには必要なものというのであれば、絶対にそれは知っておくべきである。
「字の習得には時間がかかると思うんです。ですから空いている時間を見て教えますね」
リュイスは立ち上がると椅子をしまい始める。字の話は一旦それで終わりということだろう。
イユも立ち上がった。アグルという人物に会いに行かねばならない。なんと話しかければよいのか、イユなりに想像する。
「とりあえず、アグルには『セーレにいたいからよろしくしなさい』って言えば良いのよね」
リュイスには何故か不安そうな顔で見つめられた。
「何よ?」
「い、いえ」
視線を外し、廊下へと出ていくリュイスはまるで逃げているかのようだ。
追いかける形で廊下を出ると、リュイスは大人しく待っていた。代わりに、悩む顔をしている。
「とりあえず、アグルは甲板にいるはずです」
甲板部員だから当然だろうと思ったが、リュイスの話では、甲板の大穴を修理するために備品を倉庫へ取りに出ている場合もあるのだという。
その話を聞いて、気がついた。
「ということは、複数人で固まっているわけね」
一人でいるときに話せたらよかったが、仕事の手伝いとなると他の船員もいるはずだ。
「はい。気まずくなるかもしれませんが……、そこは堪えてください」
「イユ……?」
そのとき唐突に、通路の先から名前を呼ばれた。
自然、話は中断され、声に気づいていない様子だったリュイスも、イユの視線の先を追う動きをした。
水色のドレスを着た黒髪の少女が、立ち尽くしている。その瞳が、驚きに揺れていた。
「リーサ」
乾いた口でその名を零す。
そうしてから、特に変わりない様子のリーサを見てほっとする。マーサの口調で、リーサに何かあったのかと思ったからだ。心配は無用だったようで、元気そうにみえる。
そう考えてから、本来心配されるべきはイユ自身だろうと省みた。セーレを出て、一夜と経たず兵士に追われて戻ってきたのである。
「……その、帰ってきたわ」
おずおずと呟いた言葉に、誰よりもイユ自身が安堵する。今こうしてセーレに戻ってこられたことにようやくの実感が沸き始めた。胸がいっぱいになり、リーサを見つめる。
リーサは、マーサのように抱きしめたり、今イユが感じている喜びを噛みしめたりもしなかった。ただ、呆然と突っ立って信じられないものを見るような顔をしている。
そこで、イユは初めて理解した。その理解に、戦慄した。
――――リーサの瞳の揺れは、驚きではなく戸惑いと恐怖からきている。
「……ごめんなさいっ!」
突如リーサはそれだけを叫ぶと、身を翻して廊下を走り去る。ばたばたと足音が遅れて、空気を揺らす。流れるような黒髪が視界から消えた後も、暫く走る音だけが世界を揺らしていた。
やがてしんとした空気が、廊下に残る二人の間に落ちた。傍観者だったリュイスですら、驚いたようで何も言わなかったのだ。
「……追わなくてよいのですか」
リーサが完全に去ってしまってから続いていた沈黙に、とうとう耐えられなかったのだろう。リュイスにそう声をかけられて、イユはようやく呆然と立ち尽くす自身を自覚した。思考が完全に止まっていたと意識しても、動き出すのに時間が掛かった。
追うべきなのだろうか。追ってどうするのがよいのだろう。
イユにはリーサの戸惑いや恐怖に対抗する術が分からないのだ。
「……えぇ」
結果、吐き出した声が重かった。
「大丈夫ですよ。また会う機会はあるはずですから」
今は無理に追わなくてもよい、落ち着いたときにでも探せばよいと、リュイスから励まされる。
頷きながらも、あのような逃げ方をされた後で一体どういう顔をして会えばよいのだろうと言いたくなった。
胸元に冷たさを感じる。首にかけていた深緑色の石のペンダントが急に重くなったかのようであった。




