その558 『嘆きの終わり』
食事の準備は終わっていたので、厨房でイユが何かすることはなかった。昼御飯の準備も、明日仮眠を挟んだあとにやることにする。もう現在位置が突き止められたので、夜型生活から徐々に戻すことになったのだ。
「ラダ。夕飯を持ってきたわ」
お椀を持ち込んだイユは、そう声を出しながら、航海室に入った。そこで大きな窓から夕陽が映り込んでいる景色に足を止める。窓の先では、夕暮れに染められた大陸が広がっている。
眠っている間に、シェパングの大陸までやってきていたのだ。
「レパードの分もあります」
イユの後ろで、リュイスが声を掛ける。今日はラダとレパードが航海室組だ。ラダだけ持ち込むよりはと、レパードの分も持ってきたのだった。
「ほぉ、うまそうだな」
「今日は、メニューが違うようだね」
香りを嗅いだ途端、夕日に照らされた二人の表情が変わった。食事に飽きがきていたのかもしれない。
「食べて。それから地図を見せて」
二人が食事をすませている間に、リュイスとワイズ、イユの三人で地図を確認する。驚いたことに、計測結果とタラサの地図上での位置が座標上でメモされていた。計測結果は常にラダに送っていたのだが、どうやら今回嘆きの口を出た時点で対応してくれていたらしい。全て自分たちで作業するべきだと思っていただけに、大きな前進だった。
だが、これですぐに解決といけたら良かったが、中々そうはならない予感もしたのだ。
「今までの経路で考えると、このあたりが桜花園のようではありますが」
ラダも当たりはつけていたようで、既にそこまでの自動操縦になっている。
「地図が分かりにくいの、本当に厄介よね。自動で今の地図に置き換えられたら良いのに」
「その技術がないから手作業なのでしょう」
「それはそうだけれど」
イユたちの会話を聞いていたラダが、話に入る。
「君たちが計測してくれた地図情報のおかげで、ここまで絞れたんだ。完璧でないとはいえ、方角に間違いはない。お陰で休めそうだよ」
休めそうと言われて、イユは思わずラダに向き直った。
「本当? 本当にこれで休めるの」
半信半疑だった。イユたちがやったのは現在位置を特定したことだけだ。残りはラダがやってくれたとはいえ、それも完全ではないのだ。クルトやライムたちに知見を求め、地図とにらめっこする作業はやってすらいない。
「そうだな。ちょっと様子見は必要だろうが、ラダを航海室に縛り付けなくても良いだろう」
「いや、桜花園まではここにいるよ。何があるか分からないからね。ただし、負担は減る。今のところ、良い感じに進んでいるんだ。時折寝かせてもらっているよ」
レパードとラダのやり取りを聞いて、ほっとした。
「正確な地図情報も欲しいには欲しいがな。だが、桜花園なら遠目にも目立つ。他の飛行船も現れる頃だろうし、最悪迷ってもどうにかなる」
シェパングでは多くの飛行船が飛び交っていると、レパードは言う。そのため、仮に迷っても道を教えてくれるらしい。とはいえ、イユたちは『異能者』で、『龍族』だ。あまり無邪気に聞けるものでもないだろう。
「でも良かったわ。本当に休めるのね」
「随分、心配してくれるんだね」
ラダに意外そうな顔をされてしまった。
「当たり前でしょう。私は、これ以上セーレの皆に辛い思いをしてほしくないもの」
ラダに倒れられては困る。それは事実だ。ラダは航海士で、タラサの生命線である。
だが、それとは別に、セーレの仲間として傷ついて欲しくなかった。シェルのように気力を失って欲しくなかったし、当然無事でいて欲しい。そして、休めるときに休み、元気な状態でいて欲しいと思っていたのだ。
「だから、ラダにも当然元気でいて欲しいの」
ラダは少し目を見張るような表情をした。
「君は少し変わったね」
そこまで驚かれると心外である。
「そうかしら?」
「あぁ。悪い意味に聞こえたら申し訳ないが、もう少し自分のことを考えている人間だと思っていたよ」
イユの根本は変わっていないはずだ。何故なら、セーレの皆のことを考えているのは、自分自身のために他ならない。誰かを失いたくないのは失う辛さを感じたくないからで、誰かの健康を考えるのは元気な皆の表情を見ていたいからだ。
「だが、そうか。――――も、セーレに入るのか」
何かに気づいたかのように呟かれた独り言は、急すぎて異能を使う前に吐き出されてしまった。肝心な部分が聞き取れず困惑していると、ラダに苦笑される。
「ありがとう。素直に休むとするよ」
そのとき、視界の端で何かがイユの気を引いた。振り返ったイユは窓の先に白いものがあることに気付く。
「見えたか」
レパードの言葉を聞いて、イユは視力を調整する。白いと思ったが、よく見るとそれは僅かに桃色に染まっていた。大きな木のようだ。そこにたくさんの白い花が咲いている。
「あれは――――」
わかるか、とレパードが呟いた。
「あれは桜だ」
はじめて見た花は、どこかオリニティウスに似ていた。だが、雪の下で育つ花とは違い、木々には勇ましさすらある。しっかりとした大木に可愛らしい花が咲き乱れる様子は、不思議とイユの気持ちを引き付けた。
やがて、ぽつんぽつんと緑の木々の間に紛れるようにして生えていた桜の木が、その数を増やしていく。ついには、地平線の先まで続くのではと思うほどの桃色の景色が、そこに広がった。
「ここが、桜花園?」
「違うな。ここはあくまで桜が多いってだけだ」
切り立つ山の向こう側、遥か先に小さな島が浮かんでいる。それは、イユの異能を使っても辛うじて見えるかどうかといったところ。船でも一日以上はあるその先で、桜の大樹が浮いていた。
レパードが、イユならば見えているだろうとばかりに、発言する。
「あれが、桜花園だ」




