その544 『絶望のなかに取り残されて』
「シェル、起きた?」
医務室を覗く。耳を澄ますが、寝息が聞こえない。明かりをつけ、シェルの近くまで進む。
「ねぇちゃん?」
包帯のせいで音が聞き取りにくいのだろう。初めて気がついたように、シェルが呼んだ。
「えぇ、私よ。起きられそう?」
「うん」
ずっと寝ているのも辛いだろうと思い、リュイスとともに身体を起こす。その動きだけでも、一苦労のようで辛そうだった。
「大丈夫?」
「うん」
そうは言うが、以前より厳しそうだ。ここ数日で、体力が落ちてきているのかもしれない。イユは心の中で考える。癪に障る医者がリハビリが必要だと言っていた。しかし今は一人でも起き上がれない状況だ。助けがいる。
「ラビリねぇちゃんは、もう行っちゃった?」
「えぇ」
今まではラビリが比較的シェルの面倒を看てくれていた。身体を起こすといったこともこれからは、イユとリュイスで看るべきだろう。
「シェル、何か食べられそう?」
「うん」
幸いにも、すぐに返事があった。食欲はあることにほっとしながら、イユは持ってきた粥を渡す。サンドイッチはまだ喉が通らないだろうと考えた故の判断だ。火傷をしないようにとの配慮から少しぬるめになっている。スプーンを使う必要があるのが唯一の心配点だった。
「……ほら。食べられそう?」
「大丈夫だよ」
利き手でないからだろう。言葉とは裏腹に、思ったより苦戦しているように見て取れた。それを眺めていたら、待ち時間があることに申し訳なさを感じたのだろうか、シェルから今日一日の出来事について質問される。
「そうね……」
どこから話したものか。イユが悩んでいる間に、リュイスが今日起きたことを話し始める。相変わらず、的を得た説明だ。
シェルはその間、黙々と食べ続けている。人食い飛竜の話を聞く最中も、その様子は変わらない。
一通り話し終わった頃が、ちょうどシェルの食べ終わる時間だった。リュイスが口をつぐんだのを見計らって、シェルが口を開く。
「街にはいつ着くか分かる?」
イユは首を横に振った。
「はっきりとは分からないわ。分かるのは方角だけ」
「そっか……」
覇気のない言い方が気になった。
「街が見えてきたらすぐに伝えるから。何か欲しいものでもある?」
シェルの視線が、空っぽの皿に向けられている。その瞳に何が映っているのか、分からなかった。
「欲しいわけじゃないんだけど……」
その歯切れの悪さが、イユの心の中にもやもやを与える。
「何でもいいわ。言って」
イユの言葉に意を決したらしいシェルが、ゆっくりとイユとリュイスの方へと目を向けた。
「街に着いたら、オレを置いて行って」
意味を理解するのに時間が掛かった。
「それは、どういう……」
意図を図りかねたリュイスの様子を見てか、シェルが続ける。
「街なら安全だから、そこにオレを置いて行って」
「ですが、当てはあるのですか? 恐らく着くのは桜花園ですよ」
「それは……、ない、けど」
二人の会話を聞きながら、イユは辛うじて声を絞り出した。
「どうして……、そんなことを……?」
分かっている。シェルはギルド員だ。イユのように事情がある場合とは違う。彼らは自由なのだ。いつでも船を下りてしまえる。だが、今のシェルはぼろぼろで、満足に動くこともできないのだ。そんなことを言いだす理由が分からない。
「ねぇちゃん」
何より、イユのなかで、折角会えたシェルを手放すという選択肢がなかった。だから、勝手にずっとシェルの面倒を看るつもりでいた。
「オレ、ここでこれ以上、迷惑はかけられないよ」
「迷惑だなんて」
言わないでほしかった。イユにとっては、大事な仲間だ。そんな風に遠慮しないでほしかった。
「迷惑だよ。こんな風になって実感してる。雑用もできないなら、皆の負担にしかならないよ」
そんなことはないと言い切りたかった。だが、現状を知っていた。人食い飛竜に襲われたとき、シェルには身を守るすべがなかった。ただ医務室で大人しくしていること以外できなかったのだ。
「だったら早く治せばいいのよ」
「治らないって言われたのに?」
あのやぶ医者め。イユは心の中で精一杯の罵倒をした。
「あんな奴のことなんて、無視でいいのよ。見返してやりましょうって言ったじゃない」
イユの言葉を聞いてもシェルの反応は鈍い。それが分かって、イユは話を続けた。
「それに麻痺を免れた他の機能を使えば、ある程度の日常生活を営めるって、あの医者自身が言っていたわ」
「ある程度ってどの程度?」
「それは……」
言い淀むイユに、シェルは続ける。
「魔物が襲ってきたら逃げられる程度? それとも、見張り台に登って望遠鏡を覗ける程度?」
あり得ないと、シェルの目は言っていた。あの医者は、日常生活と言った。だがそれは、ゆっくり歩いたり自分で食事をしたり眠ったり……、そう言った魔物の脅威のないところでの生活のことだ。決してギルドでの船上の生活のことではない。
「無理だよ。仮に治っても、ここにはいられないよ」
シェルは現実を直視していた。それ故に、絶望をその目に映していた。イユは少し前、自身を含め全員が前を向いて行動できていると思っていた。だが、とんでもない勘違いだった。あのときの、シェルの心情を取り残した自分を、呪いたくなった。
「……でも、私はシェルにいて欲しいの」
イユの今の気持ちをそのまま言葉にしたつもりだった。そう言えば、シェルも呑み込んでくれると、奢っていたわけではないと思う。
しかしながら、次の言葉には頭をがつんと殴られた気がした。
「そんなの、オレには辛いだけだよ」
イユが望んで一緒にいたいと思っても、相手にはそれが辛いときもあるのだという、簡単な事実。それを、初めて思い知らされた。




