その540 『切れ目』
扉を開いた先で、眩しい光が船内に零れた。風が強いせいで、イユの髪も掻き乱される。
「魔物はいないみたいです」
先に外に出たリュイスの声を聞いて、レパードとクルトも進んでいく。てっきり魔物が襲ってくるかと思ったが、意外だった。気になったイユも扉を置いて、甲板へと飛び出す。
外に出た途端、突風がイユを襲った。
「凄い風ね!」
「えぇ、気を付けて下さい」
互いに叫ばないと、声が届かないほどだ。
「うわっ、カメラ、酷っ!」
設置されたカメラに向かっていったクルトが声を上げた。
「直せそうか?」
「うーん、これはきついかも」
折角直したカメラが直ぐに壊され、それどころか修理も辛いとは、やりきれない。
「でももうちょっと、時間ちょうだい。何とか出来ないか、考えてみる」
「あぁ、頼む」
幸い、魔物は見つからない。イユは周囲をぐるりと観察する。青かった空が、少し琥珀色に染まりつつある。その空に時折『深淵』が浮かんでいた。行く先々で見掛けるそれに、イユの気持ちは穏やかではいられない。
「そういえば、下を見ろって言っていたわね」
風の音が絶えず唸っていて、耳が馬鹿になりそうだった。足も踏ん張らないと、飛ばされそうだ。慎重に手すりまで行く。
そうして覗いた先、見えたものにぽかんと口を開けた。
「何あれ」
海が、割れている。
第一印象は、それだった。
落ちたら最期と言われた、奈落の海。イユの記憶では、どの空の下にもそれはあった。それが、今、イユの真下で割れている。正確には段差が出来ていた。不自然に割れた海から、滝のように水が流れ落ちている。その水を受け取った先にあるのもまた海だ。だが、その海はまるでリュイスが起こす竜巻のように、渦を巻いている。
「壮観ですが、少し怖いですね」
同じように覗いたリュイスの感想に、イユは頷く。
このおかしな海の動きが、風にも影響しているのだろう。
イユにはまるで、そこから風が吹き出しているのが見えるような気がした。
「これが、風の唸る理由……」
吹き出した風がそのまま上空へ上がり、音を立てている。その音が嘆いているように聞こえるから、ここは嘆きの口というのだろう。奈落の海の影響は、空にも及んでいる。その事実に、戦慄した。
「お前ら、あまり乗り出すなよ。クルトも一段落着いたらしいし、そろそろ戻るぞ」
レパードに声を掛けられて、返事をする。
イユ自身、あまり下を覗いていたい気分ではなかった。いつも思うことではある。理解を超える自然の在り方に対して、イユという存在がとてもちっぽけに映る。吹けば消える蝋燭のように、イユたちの命の灯火など、一瞬でしかないのだと思わされる。
「待ってください」
リュイスに呼び止められ、イユは何事かと振り返る。リュイスの視線はまだ、海に向けられていた。
「あれは、何でしょうか」
リュイスの声は、緊迫していた。イユは心の中に湧き上がる不安を抑えつけたくて、再び手すりから顔を出す。
「何よ、あれ」
それは、海と空の狭間にあった。タラサであっても一飲みに出来そうなほどの巨体が、真下に映っている。その体は白く、どこか神聖さを感じさせる。ごつごつとした表面は生き物というよりは、大地のようですらあった。島と見違えるほどだが、それが生きている何かだと気づいたのは、長い触覚のようなものがその大地から伸びていたからだ。
「あれは、『海の守り人』だ」
呆気にとられるイユの横で、同じように手すりから乗り出したレパードが答えた。
「魔物の類だが、大人しい。低空を飛んでいるから近づかない限り、害はない。まぁ、俺もこの目で見たのは初めてだが」
害のない魔物と言われても、中々信じられるものではなかった。同時に、あまりにも魔物が大きすぎて、魔物と敵対することを考える余裕もなかった。
「あぁ、なるほど、だから人食い飛竜がいなくなったんだな」
「どういうことよ」
一人で納得されても困る。
「『海の守り人』がいると、人食い飛竜をはじめ他の魔物は近寄ろうとしないんだ。理由は俺も知らないから聞かれても困るが」
魔物たちが恐れをなしたからではないかと思ったが、口にはしなかった。その言葉を信じるならば、今は安全地帯にいるということになる。
「暫くこいつの上空を飛べば安泰なわけね」
「そうだな。ラダに伝えるとしよう」
船内に戻ると、早速クルトがカメラの修理作業に取り掛かる。その間に、ラダに事情を伝え、なるべく『海の守り人』の上空を通るルートを取ることになった。とはいえ、大体の方角しか分かっていない船が、魔物の上であまりのんびりするのもよろしくない。幸い行きたい方角と『海の守り人』の進行方向は今のところ一致しているが、大きく方向が外れたらそれまでということになった。
「うーん、駄目だぁ。部品がないよ」
航海室で話していたイユたちのところに、クルトがやってくる。先ほどまで部品を探しに船内を駆け巡っていたようだ。
「近くの街で本格的に修理しないと、どうにもならないや」
「近くの街って、桜花園よね」
地図の記憶を引っ張り出せば、レパードが「そうだ」と頷く。カメラの修理のために、果たして桜花園に寄り道すべきなのか、イユなりに考える。食糧も心許ない以上、答えはイエスしかないだろうなと吐息をついた。
「到着しても俺らは、警戒が必要になる。中央まで行くなら、俺ら以外だな」
レパードの頭は、既に桜花園に向かうことで決定していた。レパードにリュイス、イユは『龍族』や『異能者』なので中に入るのは避けたほうがよいとのことらしい。
「インセートと違って、街のなかに飛行船は停めないのね」
「明鏡園ならそれも手だが、桜花園だとな。この船は目立つから、危険があるだろう」
幸い、近くに湖があり、そこに着陸ができるということだった。ギルド船はよく利用する場所らしく、一々監査される心配もないのだという。
「その言い方だと、桜花園は初めてではないのよね?」
「あぁ。昔行ったことがある。お前らも街の外周の桜並木までは覗けるはずだ。行ってくるといい」
桜花園に行ったことがあるのはレパードとレンドとミスタだった。元々カルタータにいたラダ、リュイス、クルト、ライム、レッサ、シェル、それにイユは初めてだ。
「あそこは浪漫というよりは、風情がある」
ミスタの言葉からしても、さぞかし綺麗なのだろうと思われる。観光気分でいられないのは事実だが、どのみちクルトが部品を購入するまでの間、手持ち無沙汰になるのだ。覗いてみたい気はした。
「まぁ、その前に嘆きの口から抜け出さないといけないんだけどさ」
クルトの発言に答えるように、窓に人食い飛竜の影が映った。




