その532 『深淵、目前』
目の前に現れた『深淵』を前に、誰もが言葉を失っている。呆然自失するイユたちを現実へと呼び起こしたのは、大きな揺れだった。
「ちょっと、何?」
椅子にしがみつく形で、揺れに耐える。
「引きずり込まれているんだ」
ラダが舵へと駆け込み、すぐに動かそうとするが、重そうだ。手伝おうとして、舵を壊した記憶が蘇り手を止めた。
「プラネタリウムみたく映像が映っているわけではないようですね」
ラダの様子を見て、ワイズが冷静に告げる。
「いや、映像でなくて夢でないなら、現実ってことになるんだけどさ。それって、『深淵』に引きずり込まれて不味い状況ってことだよね? 暢気にしていられないよね?」
クルトはあわあわと動揺した声を上げる。イユはすぐにリュイスに尋ねた。
「リュイス、風よ。どうにかならない?」
「やってはみますが、帆船ではないので……」
セーレには帆があった。だが、タラサには風を受けるための帆がない。リュイスの力が当てにならないと知って、イユは歯噛みする。
そこに、ライムが提案した。
「出力を上げればいいと思う。これで……」
ライムが操作盤をいじった途端、ラダの握っていた舵が動いた。ゆっくりとだが、確実に目の前の『深淵』が遠ざかっていく。代わりに青い空が見えるようになって、イユはほっと息をついた。
ところがそこで、窓に何かが映った気がしたのだ。
「何……?」
『深淵』のすぐ近くで過ぎるものだ。不安が心に押し寄せる。だが、その後いくら目を凝らしても、その何かは見つからなかった。『深淵』が引き寄せた飛行岩だったのかもしれない。
「それにしても、一体何が起こったんだ……」
レパードが整理しようとしてか、頭を掻いた。
「それはボクも聞きたいよ。どう見てもさ、ここ、空だよね」
ラダは舵を手に持ち、操縦をしている。それを見ながら、レンドが呟いた。
「飛行船も、飛んでいるよな……」
最も、ラダが頑張ってくれなければ、今頃こうして会話をしていることもままならないだろう。
だが、今の状況が、地下の坑道から大空へと一瞬のうちに場所を変えたという事実を示していたとしても、簡単に呑み込めと言うほうが難しい。
「なんでこんなことになったんだ?」
レンドの疑問に、意外にも答えたのはリュイスだった。
「あの先ほどの感覚、スズランの島で体験したものと似ている気がしました」
リュイスの視線の先にいるのは、イユだ。「ほら」と話を振られて、イユも記憶を引っ張り出す。正直にいうと、スズランの島ではいろいろな出来事がありすぎて、思い出したくない。
とはいえ、そこまで話を振られれば、イユにも分かった。前にも後ろにも巨鳥がいたときの絶望を、苦い気持ちで振り返る。
「ロック鳥に襲われて、リュイスとアグルと一緒に遺跡みたいな場所に入ったときのことでしょう?」
あのとき、光る文字に触れた瞬間、青色の光が満ちた。自分がどこにいるかわからなくなり、何も聞こえなくなり、意識が渦の中に飲み込まれるのを感じた。そうして、気がついたら遺跡の外、ロック鳥がいた場所とは全く別の場所に出ていたのだ。
「そうです。あそこも『古代遺物』が作動したのだと思うのです」
リュイスの言っていることは突拍子がない。しかし、当時からそう憶測で話していた記憶はイユにも残っている。ここまでくると、そうとしか考えられない。
「大昔の人間は、人を一瞬で違う場所に飛ばせる機械を使っていたということね」
厳密には『機械』でよいかは分からない。飛行石の力だけを使っているかもしれないし、未知の力を用いているのかもしれない。
話を聞いていたワイズが、興味深そうな顔をした。
「確かに、転送魔術について記された魔術書があると聞いたことがあります。最も誰も扱えたことはないようですが、現実に魔術書が存在するのであればあり得ない話でもないでしょう」
魔術は『魔術師』にしか扱えない。一方、『古代遺物』は使い方さえ分かれば特別な力を必要とせず、誰でも扱うことができる。ということは、転送魔術があれば、同じように『古代遺物』でも人や飛行船を転送させる技術はあるかもしれない。
ワイズが言いたいのはそういうことなのだろう。中々に途方もない話だが、人の心や記憶を簡単に操る『魔術師』がいるのだ。転送魔術があっても、何もおかしなことはないのだと考えることにした。
「でも、どうしてその転送とやらが動いたんだ」
「多分、イユが触ったボタンが転送装置だったってことだと思う」
レンドの疑問には、ライムが心ここにあらずという様子を見せながらも、回答する。作業しながらではあるが、まだ没頭しきっていないのか、返事をする余裕は残っていたらしい。
「あ……!」
ふいに、リュイスが声を上げるので、何事かと思った。
リュイスの視線の先にあるのは、窓だ。振り返ったイユの目が、間に合った。窓の端に一瞬、それを見つける。
あれは、間違いない。飛竜の影だ。
「アグノス……?」
思い浮かぶものは、他になかった。
イユの言葉に思い出したようで、レパードが口を開く。
「そういえば、アグノスは今はどこにいるんだ? もし、ここが本当に地下道の外だとしたら、アグノスは置いて行かれたのか?」
イユの記憶では、アグノスは探索に出ていたはずだ。しかしレパードの反応を見るに、アグノスとは合流しなかったのだろう。イユの視線は、飛竜の飼い主、ミスタへと向く。
「船内に入っていれば問題ないだろうが、食事を取りに出かけていた可能性もある」
ミスタの発言でははっきりしなかった。果たしてどちらなのだろう。
「ちょっと、ちょっと!」
そこに、クルトが慌てたような声を上げる。何事かと思ったイユの耳に、あり得ない確認が入った。
「アグノスは何体もいないよね?」
クルトの言っている意味を呑み込むのに時間が掛かった。
視線を再び窓に向けたイユは、苦い顔を隠せない。
確かに、飛竜の影が見えた。それが立て続けに、二つ走っていく。その後、更に一つ。
「考えたくない可能性が浮上してきましたね」
ワイズが、いつも通りの口ぶりで、淡々と告げた。ここまで確認してしまっては、イユもまた同意見だ。複数の飛竜の影が確認できた理由。まさか、外に出ていたアグノスが一緒に飛ばされて、すぐに飛竜の仲間を連れ戻ってきたということはないだろう。
「うん、アグノスじゃないって。でも、あのシルエットは飛竜、または飛竜に似た何かで間違いないはず……」
ここが、風切り峡谷ということはないだろう。青空を見渡す限り、霧は一切確認できない。そうなると、一つの考えがイユの頭に浮かぶのだ。
ちょうどラビリに習ったばかりだというのに、何ていうことだろう。
「まさか……」
「そのまさかかもしれません」
イユの言葉に、リュイスも同意を示す。二人の考えでは、あれは飛竜の形をした魔物になる。そう考えると、地名まで行きつく。
リュイスが、イユの考えを口にした。
「ここは、嘆きの口です」
一体どうしたというわけだ。飛行船で外に出てしまったどころか、シェイレスタを越えた遥か遠く、シェパングに辿り着いていたということになる。
それも、よりによって危険だと言われた、嘆きの口に。




