その531 『聞いてしまった』
ドックを出る扉を開けると、幅広の廊下に所狭しと露店が立ち並んでいた。床に布を敷いただけの簡素な店もあれば、きちんと棚や提灯を用意し大きな看板を飾って存在を主張する店もある。久々の喧騒を身に受けて、ラヴェンナは市場を進む。
必要な物資は食べ物と水だ。飛行石などの船を動かすうえで必要な物資は、全てシサに任せてある。こういうものは飛行船の持ち主が管理したほうが良いだろうという配慮だ。
「さてと、久々にシェパングの味を口にしたいわね」
どのみち明鏡園までは大した距離ではない。お弁当を買うぐらいの気分でいればよい。そうなると、シェパングが初めてだというシサが喜びそうなものでも用意してみたいものだ。
「お嬢さん、いらっしゃい。うちの料理、食べていかないかい」
ラヴェンナは笑みを浮かべて振り返る。客寄せのためだと分かっていても、お嬢さんと呼ばれて損はない。
店で声を掛けているのは、五十歳ぐらいの男だった。その手には、コテが握られている。
「まぁ、良い匂いね」
男の前の棚には鉄板が用意されていて、そこにはソースにマヨネーズ、鰹節がふりかけられたお好み焼きが出来上がっている。鼻腔をくすぐるのは、ソースの匂いだろう。見ているだけで食欲を掻き立てられた。
これは、まさにシェパングにしかない食べ物だ。できれば、出来立てを食べさせてやりたいところである。
「そうね。必ず後で寄るから、そのときに二切れ貰えるかしら」
合流は三時間後なので、そのときに貰えばよい。ちょうど小腹も空く頃だろう。そう思ってお願いすると、店主は快く承諾してくれた。
再び歩き出そうとしたラヴェンナは、見慣れた背中を見つけ、足を止めた。人混みの間に、確かに見えた。シサの艶のある黒髪だ。市場が初めてだからふらふらと散策しているのかと思ったが、それにしては動きが早い。まるで目的があるかのように、足を進めている。
気にならないわけがない。すぐに後を追うことにした。幸い、十二年も付き合わされて、追いかけっこはお手の物だ。人の波を避け、市場を駆ける。同時に、尾行されていることに気づかせないよう、最大の注意を払う。
シサの背中は、市場を越えて狭い通路へと進んだ。ラヴェンナもすぐに進む。想像以上に、暗い通路だった。はじめての人間が進む道とは思えない。ギルド船に来たことのあるラヴェンナすらこの道を知らなかった。にもかかわらず、シサは迷いなく道を進んでいく。右に折れ、左に折れ、どことも知れない目的地に向かって突き進む。その速度に、追いつけない。
曲がり角を折れた先で、とうとうシサの姿を見失った。前方には壁、右手と左手には狭い通路が続いている。人が一人隠れられるような場所は確認できない。見上げれば、提灯のぶら下がった壁が、首が痛くなるほど先まで繰り返し続いている。そうして足を止めてはじめて、見間違いだったのではないかと思い始めた。
そこにちょうど、ちらりと黒髪が見えた。壁が高くまで続いているようにしか見えなかった上方に、狭い通路があったのだろう。シサと思われる人物が偶然そこに頭を出し、そしてそのまま道を進んでいく。すぐにその姿は壁の奥へと引っ込んでしまったが、背格好ははっきりと捉えた。短い付き合いだが、見間違うはずがないと思い直す。後部座席に乗っていたとき、何度も見たシサの後ろ姿だ。
ラヴェンナは周囲を見回して気がついた。右手の道を折れる手前、そこに階段がある。壁と同じ色だった為に気づかなかったのだ。すぐに階段を登ると、シサが顔を覗かせただろう場所に辿り着く。この分だと距離は離れていない。すぐに追いつけるはずだ。シサが消えていった先、狭い通路へと飛び込んだ。
一段と視界の悪い通路だ。赤くぼんやりと漂う提灯だけが、周囲が壁であることを伝えている。見落としがないように、目を凝らす。どこまでいっても一本道だった。ところが、どれほど歩いても、そこにシサの姿が現れることはない。殆ど追いついていたはずだ。それなのにまさかこの短時間で完全に見失うとは思えなかった。
そのとき、暗がりの先で、会話が聞こえた。
「……間違いないのか」
「はい。紛れもなく、ターゲットはこのギルド船にいます」
男二人の声だ。シサのものではない。だが『ターゲット』と言う言葉に、ラヴェンナはそっと息を潜めた。これが魔物狩りの話なら良いが、ギルド船にいるターゲットという会話からして、男二人の狙いは人間だろう。暗殺ギルドの会話を聞いてしまったのかもしれない。厄介ごとに首を突っ込んでしまった予感があった。
「影武者の可能性は?」
「……ないとはいいませんが、可能性は低いでしょう。既に影武者と思われる人物を三人、各国で確認中です」
ラヴェンナとしては、暗殺ギルドのやっていることを否定するつもりはない。半ば何でも屋と化しているラヴェンナは暗殺ギルドから人さがしの依頼を受けたことがある。逆に、復讐のため暗殺ギルドを頼ろうとした時期すらあった。だから、下手をすると、仲間意識があるぐらいだ。
故にターゲットが赤の他人なら無視し、再びシサを追いかけるところである。
事情が違うと感じたのは、影武者を複数人立てるほどの人物に、覚えがあるからだった。むしろ、ギルドにいるそれほどの重要人物など、他に思いつく候補がない。
「分かった。それならば、計画を遂行しろ」
「御意」
提灯の作る影に紛れて、男たちの会話に集中する。暗がりだが、朧げに確認できた。黒衣の男が一人、跪いている。会話の相手である、もう一人の姿は見えない。だが、声は続いている。
「良いか? くれぐれも慎重にな」
姿は見えないが、非常に堂々としていて力強い声だった。以前どこかで聞いたことのある声の気がする。ラヴェンナは記憶を引っ張り出す。
(この声は確か、シェパングの……)
そのとき、ラヴェンナは、見知った後ろ姿を捉えた。
(あんなところに……!)
完全に影に隠れて見えていなかった。思った以上にすぐ近くにいたその肩をそっと叩く。
気配に気づいていなかったのだろう、振り返ったシサの目が驚愕に見開かれ、同時に距離を取ろうとし――、
「しっ」
ラヴェンナの合図に、固まった。
「……来てしまったのですか」
暗がりのせいで、表情が見えない。
「あなたの後ろ姿が見えたから。それより、この会話は」
小声でやり取りをする。
「恐らく、マドンナのことです。彼らはマドンナを暗殺しようとしている」
ラヴェンナは小さく舌打ちした。やはりそうなのだと確証を持つ。
「聞き捨てならないわね」
よりにもよって、暗殺ギルドがギルドの創設者を狙うなど、恩を仇で返すようなものだ。それに、ラヴェンナ自身、マドンナにはいつも助けられていると感じている。その人物の暗殺計画を今目の前で目撃したのだ。絶対に阻止しなければならなかった。だが、分からないのは目的だ。
「マドンナを暗殺なんて、何を企んでいるのかしら」
平和の象徴ともいえるマドンナを暗殺など、愚の骨頂としか思えない。彼女がいたからシェイレスタとイクシウスの戦争は止まっている。シェパングもまた、彼女が出身の国ということで他国への発言力強くしている。どの国も、彼女には多大な恩があるのだ。国だけではない。彼女の貢献で、孤児を含め多くのものがギルドという形で働けるようになった。いろいろなギルドが興ったことで、島々の行き来も従来より盛んになり、技術も進歩してきている。まさに世界の立役者。それでいてそのことを奢ることはしない、まさに聖母のような人物なのだ。
最も、マドンナと話したことのあるラヴェンナは、彼女が決して善性の塊でないことも知っている。どちらかというと、どの相手にも尻尾を振る狐のような人物だ。故に、誰か個人の怒りを買うこともあり得ないことではないだろう。現実に、影武者がいることからも、想像はできた。
それでも、ラヴェンナとしては、あの意外とお茶目な聖母が、世界中の恨みを買ってでも殺したいほど憎まれているとは思いたくないところである。
「止めなくてはなりません。なんとしても。そのためには、誰が後ろに潜んでいるのかを特定して……」
シサの言葉が途切れる。
ラヴェンナは見た。自身のいる場所の影が深くなった瞬間を。
振り返ったラヴェンナの視界に映ったのは、黒衣の男が武器を振り上げる姿だった。
ばれたのだ。それどころか、ラヴェンナは背後に迫る影に、今の今まで気づかなかった。会話はしていたが、気配にはくれぐれも気を付けていたのにだ。それに、一本道だったはずなのに、回り込まれた。
完全に、出遅れてしまった。今となっては、銃を引き抜く暇も、逃げる余裕もない。
次の瞬間、衝撃とともに、ラヴェンナの視界は閉ざされた。
……マドンナの暗殺計画は、止められなかった。




